社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

事なかれ主義について

 よく、「役所は事なかれ主義で…」などと言われる。実際、役所に限らず、組織というものは自浄作用があり、多少の不祥事をいちいち表沙汰にはしない。事を表沙汰にしてその対応に追われ社会的信用を失うコストに比べれば、内部においてしっかり紛争解決や再発防止措置が図られるのであるならば、事を表沙汰にせず内部的に処理した方が賢明とも思われる。組織においては部分社会の法理が働くはずだから、たとえ法に反する事件があったとしても、それに対する適切な対応が行われればことさらそこに司法が介入する必要はない。それは傷口を無駄に広げるだけである。

 問題は、法に反するような事件がありながら、組織の側で適切な紛争解決や再発防止措置が取られないような場合である。組織はそのような場合、疑似的に司法の役割を果たすわけであるが、その司法的作用がうまく働かないまま事実が単に隠蔽されるというケースが存在する。隠蔽で済むならまだよいが、事実は歪曲されたりねつ造されたりもする。事件によって人権侵害が生じた場合、この事実の操作による二次的な人権侵害が生じる恐れもあるのだ。

 事なかれ主義がぎりぎり許容されるのは、組織が手続的にも実体的にもきちんとした司法作用を営み、それ以上の秩序維持措置が必要ない場合である。ところが、組織において違法事実についてのきちんとした手続がとられず、あるいは違法事実への対応の内容が不適切であった場合、部分社会の法理の適用の前提を欠く事態となる。例えば職場で暴力沙汰があったとすれば、加害者への適正な処分、被害者への謝罪など適正な配慮が必要なわけであって、それが満たされなければ組織は準司法作用を果たしていないことになる。その場合はもはや事なかれ主義は通用しない。だから、事なかれ主義によって効率的な組織運営をしたいのであれば、有事の際の内部的な対応マニュアルを手続的にも実体的にもきちんと整備すべきである。それがなされない以上、事なかれ主義は許容されないであろう。

長谷川宏『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)

丸山眞男の仕事を平明にまとめている本。主に、知的エリートと庶民との分離という観点、また近代的主体への希求という観点から全体像がまとめられている。丸山は自分たちエリートと庶民との間に距離を持ち続けた。また、丸山は自由で自立した近代的主体が日本に成立することを望んでいた。
第二次世界大戦へと突き進んだ日本の超国家主義的国家像において、天皇は精神的価値と政治的価値の両方を一元的に握っていた。だからその臣民たる国民に主体性が芽生えなかった。国民は精神的にも政治的にも天皇に従属しなければならなかったのだ。無規定的で自由な主体としての個人の登場が必要なのである。
日本の近代化の方針は福沢諭吉が示してくれている。福沢の反儒教主義は重要である。儒教の核心をなすのは社会秩序・規範・倫理であるが、福沢は自然・法則・物理へと向かったのだ。社会秩序に従属的である態度から、社会秩序に対抗する主体の精神の創出を目指した。
本書は丸山の思想を平明に解説してくれているが、少し違和感を感じた。というのも、丸山の文体というものは決して平明ではなく起伏に富んだものだからだ。これでは丸山の思考のデリケートさがあまり伝わって来ない。だが、読者はここから丸山の原典に当たるきっかけが与えられる。丸山の俊敏で機微に満ちた思考を味わうためにも、ぜひ丸山の原典に当たる必要がある。

諸富祥彦『フランクル』(講談社選書メチエ)

 

知の教科書 フランクル (講談社選書メチエ)

知の教科書 フランクル (講談社選書メチエ)

 

  アウシュヴィッツの生還者として『夜と霧』を書いたことで有名なフランクルだが、心理療法家としても多くの著作を残し、多くの影響力を持っていた。

 フランクルは人間を「苦悩する存在」(ホモ・パティエンス)ととらえ、苦悩を肯定的にとらえた。苦悩は業績であり、また能力であり、人間の成長をもたらす。とはいっても、決して人間はマゾヒズムに陥ってはならない。苦悩が自己目的的になってはならない。何かのため、誰かのために苦悩するのでなければならない。苦悩はそれを超越したものを志向する必要がある。他の存在者の「もとにある」「バイ―ザイン」という志向性が重要なのだ。

 人は実存的空虚に支配されることがある。そのとき人に必要なのは孤独になる勇気である。すると見えてくるのは、幸福の追求が空虚を生んでいるということである。幸福は追求するほどその人を幸福から遠ざけるという「幸福のパラドックス」を孕んでいる。

 人間が人生の意味は何かと問う前に、人生の方が人間に問いを発してきている。私たちがなすべきこと(意味・使命)は、「私を越えた向こう」から既に与えられていて、私たちは状況からの問いに対して責任をもって正しく応答する必要があるのだ。

 フランクルのロゴセラピーは、意味志向心理療法であり、内省の徹底よりも「自分にとって不可欠な、固有の意味を帯びた問題」に真摯に答えていき、自分の「天職」を見つけることを要求する。

 フランクルのロゴセラピーは、私たちに発想の転換を促すものだと思う。「気の持ちよう」についての一つの理論であり、人間を前向きに転換させる力のある理論である。自分を越えた「人生の問い」があらかじめ存在して、それに対して未来に向かって応答していくという姿勢は、なんとヒロイックかつストイックなものであろうか。虚しさなど感じている暇はない。人生は意味にあふれている。大事にしたい思想である。

辻清明『政治を考える指標』(岩波新書)

 

政治を考える指標 (1960年) (岩波新書)

政治を考える指標 (1960年) (岩波新書)

 

  この本が出版されたのは1960年。安保条約が片務的なものから双務的なものへと改定されようとしているときだった。著者は政治が「大きな曲がり角」に来ているとし、政治批評を繰り広げる。著者は、当時の政治の問題として、(1)国民の自発性を尊重していないこと、(2)多元的な国民の利益を抑えるために抽象的な国家観念を乱用していること、(3)野党の意義を認める統合の原理を理解しないこと、を挙げている。その問題意識のもと、議会政治や政党政治、官僚政治について問題点を指摘していく。

 本書は、政治について一定程度の教養のある者なら容易に読み飛ばせるものであり、とりたてて専門的な内容は含まれていない。政治をよく知らない一般の人に、政治というものがどういうものであって、当時の政治はどんな問題を含んでいるかを説いた書物であって、政治の素人には一定程度の啓蒙効果はあったと思われる。私としても、当時の知識人の問題意識のありかを知って面白かった。

松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書)

 

ソ連史 (ちくま新書)

ソ連史 (ちくま新書)

 

  本書はロシア革命から連邦解体にいたるまでのソヴィエト連邦の通史である。主な登場人物は、スターリン、フルシチョフゴルバチョフスターリンの独裁による緊張した政治から、フルシチョフによる緊張緩和と経済発展、ゴルバチョフによるさらなる規制緩和と立て直し、という具合にソ連は動いていく。

 ソヴィエト連邦は巨大な歴史的実験だった。社会主義国家の成立と変遷、崩壊は、国家や社会について考える際の貴重な材料となるはずである。そこには経済の問題だけでなく、外交の問題や民族の問題や、権力や民主主義の問題など幅広い問題系が提示されている。社会科学の多くの問題を考える上での貴重なサンプルとして、ソ連は深く理解されるべきであろう。