社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)

 

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

 

  かつて日本の山村では人々は事実としてキツネに騙されていた。その現象がなくなったのは1965年ごろである。その理由を探る中で日本社会の変遷を追っている本。

 人々がキツネに騙されなくなった理由として、①高度経済成長期の経済発展により人々が経済的人間になったこと、②科学技術の普及により人々が物事を科学的に見るようになったこと、③情報技術の発展により人々とキツネとの伝統的なコミュニケーションが消えたこと、④進学率が高くなり村の伝統的な教育が崩れたこと、⑤死生観の変化により土地とともにあった信仰が消えたこと、⑥自然観の変化により人間と自然が切り離されたこと、が挙げられている。

 本書は実証的なデータに基づいて書かれた社会科学の本ではないが、日本の一つの時代の変遷を丁寧に追っていて、日本の歴史に対する興味深い考察となっている。現代、この変わりゆく世相において、同じように消えていく「事実」がいろいろあるのだろう。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)

 

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

 

  大学とは何か、という問いに対して、大学の文化史でもって答えを与えようとする本。

 本書は、①キリスト教世界と中世都市のネットワーク、それにアリストテレス革命を基盤とした大学の中世的モデルの発展、②印刷革命と宗教改革領邦国家から国民国家への流れの中での中世的モデルの衰退と国民国家を基盤とした近代的モデルの登場、③近代日本における西洋的学知の移植とそれらを天皇のまなざしのもとに統合する帝国大学モデルの構築、④近代的モデルのヴァリエーションとして発達したアメリカの大学モデルが、敗戦後の日本の帝国大学を軸とした大学のありようを大きく変容させていく中でどのような矛盾が生じてきたか、について論じている。

 そのうえで、現代の国民国家の退潮と情報革命に際して、現代の大学の在り方として、国境を超えた都市間のネットワーク、共通言語や学位などの国際的標準化などを提言し、新しい自由の空間の創出に期待している。

 昨今の大学改革論議に際して、そもそも大学というものがどういう機能を担っていて、大学の在り方としてどういう選択肢があるか、そういう基本的な問題意識が必要になっている。本書は、大学がどうあるべきかを考えるにあたって必要な材料を、大学の文化史という視点から与えてくれる。刺激的で楽しい読書だった。

白石典之『モンゴル帝国誕生』(講談社選書メチエ)

 

モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る (講談社選書メチエ)

モンゴル帝国誕生 チンギス・カンの都を掘る (講談社選書メチエ)

 

  考古学などの知見をもとに、モンゴル帝国誕生の秘密に迫った本。

 大帝国を築いたチンギスの戦術には遊牧生活のノウハウが見え隠れする。彼には優れた「遊牧リテラシー」があった。草原力の変化に応じて的確な行動をし、遊牧民が歴史の中で培ってきた遊牧知を適切に運用することができた。

 具体的には、「馬・鉄・道」を確保するための遷地を適切に行う「シフト戦術」、鉄資源を獲得するためのロスやコストを減らす「コストダウン戦術」、臨機応変で機動的・可動的な鉄生産を行う「モバイル戦術」、一極集中による危険を回避する「リスク回避戦術」、モンゴル高原全体を覆う道路やネットワークを構築する「ネットワーク戦術」である。

 本書は、チンギス・カンがなぜ大帝国を築くことができたかという問いに答えることを主眼としており、チンギス・カンにまつわる細かい歴史的事実を祖述するものではない。その秘密は何も特別なところにあったわけではなく、遊牧民が普段用いている遊牧知を有効活用したというその点に尽きるとしている。なかなか楽しい読書だった。

長谷川三千子『からごころ』(中公文庫)

 

  長谷川三千子のデビュー評論集。

 日本人が中国語を仮名として日本語に取り込んだときの「無視」の構造について論じた「からごころ」、西欧的な「物」「主体」とは異なった物体観や心理を谷崎「細雪」に見出す「やまとごころと『細雪』」、敗戦後きれいに隠蔽された戦争時に日本人が抱いていた「敵」という機構について論じた「『黒い雨』」、「国際社会」という言葉の意味を遡ってその狭さを指摘した「「国際社会」の国際化のために」が収録されている。

 総じて、日本或いは日本人の問題について、隠されたり見落とされたりしている本質について論及している刺激的な論考である。著者は哲学の教授であるため、叙述が論理的で明晰であり、日本の文芸評論にありがちな意味不明がほぼ見られない。おすすめの評論家である。

出世拒否

 私は地方の比較的大きな企業に勤めている。比較的地位は安定しているが、組織の体質が古く、今までひどく苦労してきた。
 入社一年目は良い上司と同僚に恵まれ、また結果を残すことができて順調だった。ところが二年目は打って変わって超ブラックな職場になった。まず与えられる仕事が過多で、いくら残業しても終わらず、休日出勤は当たり前、それでも仕事は終わらずに毎日のように上司に怒鳴られた。私は入社二年目で初めて直面する仕事が多く、にもかかわらずサポート体制はまったくなっていなかった。上司も先輩も仕事を教えることができず、私は仕事のやり方もわからないままただ怒鳴られ続け、精神的に追い詰められた。そして、ある日上司から30分間にわたる罵倒を受けて抑うつ状態になり、休職・配転となった。
 その後復職となったわけだが、問題を起こした部署と上司はろくに責任も取らず、あたかも私に重大な問題があったかのような整理がなされた。結局問題が起きたら若手に責任が転嫁されるのである。管理職は責任逃れのために、私について様々な悪い評価をでっち上げた。それゆえ、受け入れ先の課で私は非常に働きづらい思いをした。課長からして私を問題職員扱い、なんとかいじめてやめさせてやろうとしてきた。明らかなパワハラ事案だが、問題はきれいに隠蔽され、責任は私に転嫁された。「俺だったらあいつを面接で落とす」「採用を取り消す」「精神的に弱い」など様々なことを言われた。
 私はかろうじて二年目をやり過ごし、三年目に支店に出た。支店に出てようやく解放されたかと思ったら、そこの上司がまた性格に難ありで、私の仕事の不慣れなところに散々付け込んできた。だが三年目はなんとか鬱にならずに辛うじてやり過ごし、四年目にその上司のことをすべてまとめて上に告げ口した。それからその上司はおとなしくなった。四年間で二回パワハラの被害に遭ったことになる。
 わたしは、弊社の平均に比べて学歴が高い。もともと学者肌の人間で組織をうまく渡り歩くことには向いていないのかもしれない。それでも、このような経緯があって、組織の中の人間がいかに醜いかということを嫌というほど知らされた。自分に傷がつかないため、つまり保身のために他人に責任転嫁をしたり、高学歴に嫉妬して足を引っ張って来たり、そうやって他人の評価を低める反面自分の評価を高めようとする。そこまでして出世にこだわる必要などあるだろうか。私は端的に組織の人間たちの出世欲の被害者である。だったら自分は絶対出世などしてやるものか。責任はちゃんと引き受ける。他人の足を引っ張らない。困っている人がいたら助ける。そういう当たり前のことをしていきたい。出世拒否してよろしいか。