社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』(河出書房新社)

 

  「レンタルなんもしない人」とは、「ただ一人分の存在を差し出す」というサービスを無償で行っている人のことだ。一人で入りにくい店があるとき、誰か一人の存在があると、その一人の存在を触媒として行動ができる。人一人の存在にはそのような力があり、たとえその一人が簡単な受け答えしかしない「なんもしない人」であっても人を前に押し出したりする力がある。彼がこのサービスを始めたきっかけには、存在するだけで給料がもらえるという「存在給」の発想や、何もしないのに存在するだけで素晴らしい赤ちゃんの存在があった。

 彼は個性的であろうとしない。ポジティブに自らを規定するのではなく、あれではないこれではないと消去法で自らを規定しようとする。また彼は人との距離を縮めない。他人と友達の中間くらいの距離感を保っている。そして、人間関係で発生する負債、ギブアンドテイクから自由であろうとする。また、みずからスペックゼロであることを良しとして有能であろうとしない。

 彼の価値観には、端的に今の若い世代の価値観が濃縮されている。大きな物語が終わった後、大きな物語は個人の次元でも消滅し、絶対的なものは存在せずみな相対化されていくのみだ。若い世代は大きな夢に向かって自らを規定していくことについて冷めた見方をしている。そして、若い世代は面倒な人間関係を嫌う。人と深くかかわることを避け、人付き合いにクールである。そして若い世代は存在するだけで肯定されようとし、何かしらの実績を積むことに消極的である。

 「レンタルなんもしない人」はポストモダンを体現したような人物であり、今日も彼にはたくさんの依頼がツイッターから訪れる。時代は彼を必要としているのだ。

國分・山崎『僕らの社会主義』(ちくま新書)

 

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

僕らの社会主義 (ちくま新書 1265)

 

  哲学者の國分功一郎とコミュニティデザイナーの山崎亮が初期社会主義について対談したもの。

 ラスキン、モリス、オウエンらの初期社会主義者たちは、労働者の権利が確立しておらず貧困が深刻だった時代背景で彼らの主張を展開した。現在もまた彼らの時代のように労働者が困窮しているため、彼らの思想から現代の我々は学ぶものが多い。

 彼らマイルド・ソーシャリストは労働者住宅を作ったり生活協同組合を作ったりした。また、装飾を重視し、労働を楽しみのあるものとして考えていた。芸術作品があふれかえることで街に様々な文脈が生まれることを良しとしていた。彼らの思想から学び取れるのは、「誰しもがディーセントな暮らしのできるフェアな社会」の建設である。働き甲斐のある人間らしい仕事をして均等に暮らせる社会が求められる。

 本書はマルクスらが空想的社会主義者として排斥した初期の社会主義者をもう一度見直そうという趣旨の対談であり、確かに初期の社会主義者の主張は現代では受け入れられないものも多数あるが、現代に生きるものも多数ある。実際に社会問題が深刻だったときに生まれた思想が、同じように社会問題が深刻となっている現代に生きるのは当然かもしれない。大変刺激的だった。

私の働き方改革

 最近、働き方改革の機運が高まっている。世相の流れもそうだが、私も個人的な理由から働き方改革を心掛けてきた。
 過去を振り返るが、私が入社して2年目についたポストは超激務だった。毎朝始発で出勤して終電で帰り、土日出勤しても仕事が終わらず、仕事が終わらないと毎日のように怒鳴られた。当然のように私は体調を崩し、1か月休むこととなった。
 その時思ったのは、健康を犠牲にしてまで仕事をするのは端的に間違っているということである。優先順位的には、1に健康、2に家族、3に仕事である。それを間違えてはいけないと強く思った。
 それでも仕事であるから業務量が多いときもある。私は朝型の人間であるから、忙しいときは朝残業し、夜は必要最低限の残業しかしないようにした。なぜなら、朝の残業は効率もよく健康も害さないが、夜の残業は効率が悪く健康に悪影響を与えるからだ。それは私が朝型の人間であるという単純な事実に基づく。
 だから、前の部署にいたときは朝6時に出勤し、定時に帰るという働き方をした。私なりの工夫の仕方だった。今の部署でも朝7時や7時半に出勤し、仕事の効率がいい時間帯に集中して仕事を進め、なるべく定時に帰り、家では買い物をしたり家事を手伝ったりするようになった。
 働き方改革は今や世の中の大きな流れであるが、私はその必要性を実際に肌で感じ、それ故に自ら働き方を工夫している。働き方というものはこのようにデリケートなものであり、それぞれの人がそれぞれの事情や主義で行っているものなので、基本的にお互いに尊重し合う必要がある。

残間里江子『閉じる幸せ』(岩波新書)

 

閉じる幸せ (岩波新書)

閉じる幸せ (岩波新書)

 

  編集者などいくつかのキャリアを駆け抜けたキャリアウーマンの生き方エッセイ。著者は山口百恵の自伝を手掛けたりした敏腕編集者である。人生の閉じ方についての具体例も、著者の交友範囲の広さを示すもので面白い。

 著者の主張としては、人生にとっては閉じることが大切であり、人生の棚卸をすることで余分なものを閉じていき、本当にやりたいことに邁進していく姿勢が大事だということだ。閉じるということはポジティブなことで、人生の各段階でうまく閉じることがその後の人生の充実につながる。

 本書はエッセイであるから、構成の点や論理の点において弱い。とにかく著者が実感として得たものを書き綴っているので、そこに生じる事実性こそが取りえであろうか。だが、それでありながら「閉じる」という一つのテーマを据えているので、どうもそのテーマにうまく収れんしきれていない。まあ、エッセイであるから、著者という一人の人間の生きた声として味わいたい。

梯久美子『原民喜』(岩波新書)

 

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)
 

  原民喜は戦前・戦中・戦後の時期を生き、自らの被爆体験をもとにした原爆文学で知られている作家である。原は自閉的な人間であり、非常に繊細な人間であった。生活能力はまるでなかったが文学的な才能に恵まれていた。

 原の創作は彼の人生の段階に即して死・愛・孤独の時期に分けることができる。まず、幼年期から少年期は死の時期である。そこでは父の死や姉の死に衝撃を受けた原の心持が描かれている。次に、妻と結婚してからは愛の時期である。原にとって妻は唯一心を開ける相手であり、唯一の心のよりどころであった。原は妻に語り掛けるように作品を書いたりしている。最後に、妻の死後、広島で被爆してからは孤独の時期である。この時期彼は広島の惨状を描いた作品を多く書いている。

 本書を読むと、原の性格は文学者として典型的すぎるものであり、結局現実世界とうまく交通できない人間が虚構の世界へと目を向けるのか、という印象を受ける。だが、この種の「呪われた詩人」像はもう過去のものとなっているはずである。現代、文学者は市井から現れて一向にかまわない。現実世界とより深く交通したところからこそ優れた文学は生まれるのではないだろうか。