社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

黒川伊保子『夫のトリセツ』(講談社+α新書)

 

夫のトリセツ (講談社+α新書)

夫のトリセツ (講談社+α新書)

 

 夫婦の間ではディスコミュニケーションがしばしば生じる。妻の側ではとにかくプロセスの細部を聞いて共感してほしいのに、夫の側は単刀直入に結論を出してしまう。「だったらこうしたら」「それはお前が悪い」。もしくは、妻が細かいおしゃべりをしているのを夫は上の空で聞いていて、全然反応してくれない。

 これは、男の脳と女の脳の造りの違いから生じるのである。男性脳は目標志向型であり、結論を求める生存戦略をとる。それに対して女性脳はプロセス志向型であり、共感による生存戦略をとる。女性脳がプロセス志向で共感を求めておしゃべりをしていても、男性脳は論理的に結論を下してしまう。また、男性脳は沈黙でストレス解消をするのに対し、女性脳はおしゃべりでストレス解消する。だから、女性がストレス解消のためおしゃべりをしていても、沈黙を求める男性はよく反応してくれないのである。

 黒川伊保子『夫のトリセツ』には、このような男性脳と女性脳の違いによる夫婦間のディスコミュニケーションが描かれている。黒川は日常的な男女間の齟齬を科学的見地より説得的に説明している点で優れている。この齟齬に対して、女性の側からの歩み寄りの仕方についても書いている。例えば、このように男性脳と女性脳は相補的な関係にあるのだから、互いに補い合う、苦手な部分は相手に任せて互いに相手をかけがえのない存在にする。そういう努力をすることによって夫婦の危機は乗り越え可能である。

 違う脳の構造を持った男女が共同生活をするということはなかなか危険であるが学びに満ちたものでもある。男性脳と女性脳は造りが違っても、得意分野が違うだけであって、全般的な能力は初めから備わっているため、男性はより女性的に、女性はより男性的になることで齟齬を回避できる。初めから違うもの同士でも歩み寄ることは可能である。

久米郁男『労働政治』(中公新書)

 

労働政治ー戦後政治のなかの労働組合 (中公新書 (1797))

労働政治ー戦後政治のなかの労働組合 (中公新書 (1797))

 

 労働組合に加入している労働者は多いと思う。最近組織率が低下しているとはいえ、依然労働組合は労働者の待遇改善のため、日々活動を続けている。労働者が良い待遇を得るために労働組合の果たす役割は大きい。労働組合は企業内部で企業上層部と交渉を行うだけでなく、より広汎に組織化され利益団体として政治に影響力を行使している。労働組合もまた一つの利益団体なのである。

 ではなぜこのような利益団体が必要なのだろうか。政治に国民の意思を反映させるためには、選挙制度というものがあり、国民は自分の支持する候補者に投票することで自らの利益を実現しようとするのではないだろうか。ところが、選挙において候補者は全国民目線でマニフェストを掲げる。国民をひとからげにして政策目標を掲げるのである。だが、国内にはそれぞれ特殊な利益を担った人々がいて、自分たちの利益を特に最大化するように何とかして政治に働き掛けたい。その場合、選挙よりもより直接的に、同じ利益を共有する人同士で団体を作り、その団体から政府に要望を挙げたほうが近道である。利益団体によるロビー活動は選挙よりも直接的に少数者の利益を政府に訴えることができるのだ。

 久米郁男『労働政治』には、利益団体としての労働組合の性質が丁寧に論述されている。また、日本における労働組合の歴史についても詳述されている。日本においては、政治を改革しようとする共産主義路線と、既存の政治と共存しながら経済合理性を追求する路線があったが、共産主義路線は排斥され、労働組合を母体として経済合理性を追求する路線が固まっている。

 何気なく加入している労働組合であるが、労働者の利益を選挙とは別のルートで国政へとアピールしていく利益団体として、労働者の待遇改善に尽力している。国民が政治へ自らの意思を反映させる方法としては、選挙だけではなく利益団体への加入という方法もあるのだ。

竹内悊『生きるための図書館』(岩波新書)

 

生きるための図書館: 一人ひとりのために (岩波新書)

生きるための図書館: 一人ひとりのために (岩波新書)

 

 私たちは図書館の存在を所与のものとして、本を無償で借りられる便利な場所ぐらいにしか思っていない。だが図書館にも歴史があり、図書館はしかるべき制度に則って運営されているのである。子供に良い本を読ませるために運動した菊池桃子の業績や、社会教育や文化振興を目的とする図書館法の存在。図書館というものは先人たちの努力の成果としてできあがっていて、きちんとした制度によって存在意義が規定されていて、また司書などの職員によって丁寧に運営されているのである。

 竹内悊『生きるための図書館』はそのようにして、図書館情報学入門として、我々に図書館を多角的に見る視座を提供する。図書館はただ本を無償で借りられる場所ではない。そこには「一人一人、みんなの生きる糧を提供する」という崇高な理念があり、そこは数多くの人たちの力によって形成され運営され、例えば災害の際はアーカイブ機能を担ったりもするのである。

 そうすると、私たち図書館利用者も図書館で本を借りる際の意識が変わってこないだろうか。ただ面白そうな本を借りるだけでなく、自分をより高めるために本を借りたり、借りた本を大事に扱ったり、返却期限をできるだけ守るようにしたりと、図書館情報学を学ぶことによって本の借り方、ひいては図書館の利用法がグレードアップしていく。

 本書は図書館情報学入門として、我々の図書館を利用する意識を改善してくれるものである。

竹内整一『日本人は「やさしい」のか』(ちくま新書)

 

日本人は「やさしい」のか―日本精神史入門 (ちくま新書)

日本人は「やさしい」のか―日本精神史入門 (ちくま新書)

 

 「あの人は優しいから」「優しい人が好き」など、私たち日本人は頻繁に「やさしい」という言葉を使う。ところが、ではやさしさとはいったい何だろうと問われると途端に答えに窮するのではないだろうか。やさしさはあまりにも自明な意味を持っているため、取り立てて定義する必要性を感じないからだ。だがそこに切り込んでいってやさしさの在り方を見極めていくのが哲学の役割だ。

 竹内整一の『日本人は「やさしい」のか』は、やさしいという言葉の日本における歴史的変遷をたどりつつ、その本来の意味に迫っている。やさしさのもともとの意味は、他人に対して恥じたり萎縮したりするところからきている。だから、やさしさとは、誠実さや正直さのように対象とのホットな関係を築く倫理ではなく、むしろ相手と適切な距離を取り相手を傷つけないというクールな倫理を体現しているのである。

 確かに、やさしい人というのはどこまでも他人の領域に踏み込んでくる人ではない。どこまでも他人に尽くす人でもない。それよりも、他人に対して繊細な気配りをして他人のデリケートな領域を侵さないよう遠慮している人である。

 とすると、恋愛においてやさしさが求められるのもわかる気がする。特に結婚して互いに共同生活を送る段になるとやさしさは必須である。他人と熱くぶつかり合う誠実さより、他人と上手に距離を取り他人を上手に配慮するやさしさの方が共に生きていく上では重要なのだ。やさしさとは何よりも共生の倫理ではないか。

 

斎藤環『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21)

 

ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)

ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)

 

 斎藤環『ヤンキー化する日本』を読んで、日本文化がヤンキー文化をマジョリティとして形成されていることが分かった。私はヤンキーとは対極に位置するいわゆる「インテリ」であり、あらゆる意味でヤンキーと対立する。だから、私は日本社会では圧倒的にマイノリティなのだ。

 斎藤によると、ヤンキーは気合主義だ。気合されあれば物事を乗り越えられると考えている。だが私は科学的な合理主義である。気合ではどうにもならないこともあるし、気合を入れ過ぎて燃え尽きることがあることも知っている。それよりも私はいかに状況を合理的に把握しそれにいかに科学的に対処していくかということを考える。

 斎藤によると、ヤンキーはバッドセンスが好きだ。悪趣味でごてごてしたものを好む。その点私はミニマリストである。センスとしては単純明快なものを好む。シンプルでありながら鋭いもの、本質を突くものを好む。そしてヤンキーは内容空疎な大言壮語、いわゆる「ポエム」が好きである。これについても私は内容を重んじシンプルな言葉を語るので対極である。

 ヤンキーは反知性主義であり、考えることよりも感じること、共感することを好む。その意味で女性的である。だが私は何事も深く考えようと努めているし、共感も重視しながらも論理主義で男性的である。

 日本がどんどんヤンキー化している、というより日本人のマジョリティがヤンキー的である、この事実がたぶん私が昔から抱いている日本社会の居づらさの根拠なのだと思う。学生時代から空疎なおしゃべりでグループを作ってつるむということができなかったし、物事について表層的なノリで済ますことが苦手だった。ひたすら科学的・論理的に突き詰めて考え、合理的に行動することを信条としていた。斎藤の本を読んで私の日本社会への違和感が可視化されたように思う。