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民事責任と刑事責任

 人を殺せば殺人罪に問われ、また不法行為責任を負い損害賠償をしなければならない。だが、これはひとつの行為に対して二重の罰を与えていて不合理なのではないか。懲役刑を受ければもうお金は払わなくても良い、あるいは、お金さえ払えば懲役刑は受けなくても良い。そういう制度もあっても良かったはずである。つまり、民事責任と刑事責任を一元化し、ひとつの行為(利益侵害)に対しては、ひとつの罰を与える、そういう制度の構築である。ちょうど新訴訟物理論が、ひとつの給付を受けうる地位に対してはひとつの訴訟物が対応する、としているように。(日本では1880年公布の治罪法において「刑事附帯の私訴」の制度があったが、これは被害者の損害賠償請求を検察官の公訴に附帯させるだけで、責任の一元化の制度ではなかった。)

 そのような責任の一元化の提案に対しては、反論として民事責任と刑事責任の性質の違いが挙げられるかもしれない。民事責任制度はあくまで損害を公平に分担するための矯正的正義の実現のための制度であって、公共の秩序を維持することや一般予防・特別予防を目的とする刑事責任制度とは目的を異にする。民事責任を課しただけでは一般予防・特別予防の機能は十分果たせず、刑事責任を課しただけでは損害の公平な分担という機能は十分果たせない。

 また、被害者の加害者に対する責任追及の柔軟性も挙げられるかもしれない。民事訴訟においては処分権主義が妥当し、損害を求めたいときだけ出訴すればよい。それに対して刑事訴訟では親告罪を除いては犯罪があれば捜査が開始し、実体的真実の解明により当事者の意思にかかわらず刑罰が科される。被害者は、損害の填補を欲するときだけ加害者の民事責任を追及すればよく、加害者に対する刑罰だけで復讐感情が満足させられれば民事訴訟を提起する必要がない。責任制度が二本立てになっていることで被害者は柔軟な対応ができる。

 仮に殺人の責任を一元化するとしても、結局は「懲役刑かつ損害賠償」という実質的には二元的な責任が課されると思われる。殺人行為は、(1)被害者側に損害を与えるので、それを填補する必要がある。一方で、殺人行為は、(2)社会秩序を強く乱すので、加害者を更正させまた見せしめとするために重い自由刑を科す必要がある。殺人行為の主観的結果(被害者に対する結果)と客観的結果(公益に対する結果)に応じて、性質の異なる二つの責任を負わせる必要があるのだ。