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証拠共通

 共同訴訟人間では証拠共通は認められるが、主張共通は認められないという。だが、民訴39条の趣旨からしたら、証拠共通も認められないはずではないか。証拠共通が認められる理由として、自由心証主義の下ではひとつの歴史的事実の心証はひとつしかありえないことが挙げられる。だが、自分の主張する事実の証拠を提出した者が、その事実の存在にとって有利に扱われ、同じ証拠を提出しない者は不利に扱われても、弁論主義の趣旨には反しないのではないか。

 弁論主義の根拠については、(1)「私的自治の原則より、判決内容も当事者の意思を尊重したものであることが望ましい」とする本質説、(2)「当事者間の利己心を利用して効率的に真実を発見し自己責任を問いうるような手段である」とする手段説、(3)不意打ち防止・手続保障説、がある。いずれの説に立っても、証拠共通を否定することには問題はないように思える。

 だが、同一の事実につき、証拠を提出したAについては、証明があったとされて事実の存在が認定され、証拠を提出しなかったBについては、証明がなかったとされて事実の存在が否定される、とするのは、常識的に考えてもおかしい気がする。権利の存在は、かなり評価的なものであり、当事者の訴訟追行の巧拙によって左右されてもかまわない気がする。だから、主張すべき事実を主張しなければ、真実には権利が存在していても、訴訟追行のまずさによって権利が認められなくてもかまわない。だが、事実はもっと前-評価的なものであり、訴訟法的な要素によってその存否が左右されるというよりは、真実に存在するかどうかを正しく認定しなければならない。事実の存在は、権利の存在よりも、より前-評価的で、世界の実体に近くなければならないのだろう。よって、やはり証拠共通は認めるべきなのかもしれない。