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社会科学読書ブログ

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「ひかりごけ」問題再論

法哲学

 以前、id:analysis_nz:20090520において、「被害者でも加害者でもない裁判官がなぜ加害者を裁けるのか」という問題を提起したが、これがなぜ問題になるのかが少し分かってきた。

 この問題に対しては、「加害者は被害者に不利益を与えた以上、公平の観点から自らも不利益をこうむらなければならない」、そして「被害者に復讐をさせると過大になったり過小になったりして適正な処罰ができないから、正義を体現した裁判官が判断するのが合理的である」、という回答を与えるのが常識的であろう。

 だがこの回答には釈然としないものを感じる。加害者が罰を受けることの相当性についてはひとまずそれを肯定しておこう。だが、ここでは、「裁判官による判断による刑罰の適正の担保」という価値以外の価値も問題となっていないだろうか。例えば、被害者が自分に生じた不利益状態についてどう処分するかを自分で決定する利益。あるいは、罰される以上は真に罰する権限がある人間に罰されたいという加害者の利益。

 被害者は、実際に苦痛をこうむっており、復讐感情も抱いており、自分の手で復讐するのが攻撃を受けたときの生理的な反撃感情にもっとも即している。被害者は自ら加害者を裁く権利を有しているといえよう。その権利を奪って、裁判官が加害者を裁くことを可能としているのは、被害者の自己決定権よりも処罰の適正という価値を優先しているからである。だが、処罰の適正という価値のほうが優先するのかは難しい問題だ。

 また、加害者は、刑罰を容認することで、身体の自由や財産権の侵害を容認している。自らの人権が侵害されるのを容認するにはそれを納得させるだけの理由が与えられなければならない。その際、裁判官による処罰の適正という価値によって自らが処罰されることを容認できるであろうか。加害者によっては、被害者こそが処罰の適格者であり、被害者による処罰でなければ自らの人権を放棄することは容認できないと主張するかもしれない。

 現行制度は、被害者の自己決定権よりも裁判官による処罰の適正を価値的に優越させ、被害者の自己決定権を奪っている。だが、それは被害者にとっても加害者にとっても納得のいかない価値判断でありうる。「被害者の自己決定権」と「裁判官による処罰の適正」、いずれの価値を優先させるかが「ひかりごけ」問題の本質だと思う。