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学問の内在化

 大学院にいて思ったのは、大学院の性格上、学問を内在化していない人が意外と多かったということだ。学問を内在化するとは、物事を学問的に認識する態度を形成するということだ。法律学についていえば、ただ条文や学説や判例を機械的に覚えるのではなく、それらを全体の体系との連関の中に位置づけ、それらの論理関係を把握し、またそれらを批判的に見てそれらに対して自分なりの創造的な意見を持つことだ。学問上論点となりうる点について、自分の頭で考えて創造的・発見的に認識してそれを論理的に秩序だてて述べることができるようにすることである。

 この学問の内在化は、実は実務家となるためには必ずしも必要ではない。実務家になるためには、通説・判例を覚え、複雑な事案から法的に重要な事実をピックアップし、それを法律の定める要件に具体的にあてはめる能力があればよい。学問精神は場合によっては邪魔者扱いされる。試験に受かるために必ずしも必要ではないからだ。「学問」などと言っている人間は、試験や実務と関係のないことについて考えたり知識を得たりという無駄な事をしているのであって、試験や実務には不適合であるとすら言える。

 だから、学問を内在化してしまった人間、つまり知恵の実を食べてしまった人間は、law schoolには違和感を感じるのだろう。私は、指導教官と話をしていた時、「君としゃべっているとlaw school生としゃべっている感じがしない。研究大学院の院生としゃべっている感じがする」と言われた。研究大学院に進む人間はたいてい学問を内在化している。

 学問を内在化するということは、「飢えたソクラテス」になるということだ。これは結構不幸なことである。だが、そういう少数者が苦しみながらも考え抜いて、実務家のよって立っているところの学説を作っているのだ。いわば、理論家と実務家は分業体制になっていて、理論家は実務家に考えるための材料を提供することで、実務家を下から支え、実務家は実際に紛争を解決したり弱者を救済したりする。

 学問の内在化は、law schoolでは必ずしも要求されない。だが、学問を内在化した少数者が学説を形成し実務を支えていることは否定できない。そして、ある程度の学問の内在化は、試験対策にも有効である。理解の質が上がるからである。まあ結局は分業体制がうまく働いていれば、世の中はうまく動いていくのだから、学問を内在化した人は別にそれを不利に感じる必要もなく、学問を内在化していない人もそれを引け目に感じる必要はない。それぞれの職業に必要な能力を得ればそれでいいのである。