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楽に生きない

 私は、あるとき、ある人から、「もっと楽に呼吸をしてはいいのでは? と思うことがありました。」と言われたことがある。傍目にも私は楽に生きていないようだ。また、以前書いたが、あるときには、ある人から、「analysis_nzさんってもっと屈折していると思ってました。」と言われたことがある。傍目にも私は屈折しているようだ。

 私はいつの間にか屈折した心根でもって苦しみながら生きることが当たり前になっていた。だから、私は楽に生きている人が許せなかった。楽に生きている人の言葉など聞きたくないと思った。だがどうだ、試験が終わったら急に解放感に満たされ、楽に生き始めているではないか。これはやばい、なんとかせねば、私のアイデンティティ自体が崩れてしまう。

 散々自己を否定しておきながら、「楽に生きている」という理由で自己を否定することだけは耐えられないのだ。「自分はゆがんでいる」とか「散々人を傷つけてきた」とかそういう理由で自分を否定するのは、むしろ懺悔の快楽を伴う。だが、「楽に生きている」という理由で自分を否定することには耐えられない。

 結局私の自己否定は本質的に自己肯定だった。「自分はゆがんでいるから駄目だ」と自己否定しているとき、ひそかに「歪んでいる自分」に満足していたのだ。なぜなら、ゆがんでいることは私のアイデンティティと矛盾しないから。「自分はゆがんでいるから駄目だ」というとき、私は「歪んでいる自分」という自己同一性を確認していたのだ。

 ところが、「自分は楽をしているから駄目だ」と自己否定しているとき、私は「楽をしている自分」に満足していない。なぜなら、楽をすることは私のアイデンティティに矛盾するからだ。この自己否定は本質的に自己否定であり、自己が自己同一性と一致していないという危機を証明する。

 だから私は楽をしないように自分に課題を課すことにした。まず試験に落ちたことを前提にする。試験については年明けから問題演習を始めることにして(それで間に合うと思う)、それまではとにかく刑法学と法哲学を、学生に講義できるくらいに理解する。専門書を読みまくる。岩波文庫の白を読む。できれば論文をまとめる。

 「楽をしない」ことは、どうやら私のアイデンティティの本質部分を構成しているようである。これを否定するのにはおそらくものすごい苦痛が伴うだろう。