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なぜ帰属意識がなかったのか

 私の失敗が、私がしほうしけん業界に帰属意識を持っていなかったことに由来することを書いたが、ではなぜ私は帰属意識を持っていなかったのか。その理由は、私の反体制的な気質による。

 短答式試験で要求されるのは、国家が採用している法制度、裁判所が採用している法解釈、それを覚えるということだ。論文試験でも条文に逆らうことはできないし、判例に逆らうのも難しい。ところが、それはとりもなおさず、国家が採用している価値観を取り入れるということを意味する。短答式試験で高得点をとるためには、暗記では通用しない。そのような条文・判例になっているのはなぜかを、学者の説明や自分なりの説明で理屈づけなければ条文や判例を記憶することはできないのだ。

 ところで、そのような理屈付けにおいて利用されるのが、国家の採用している価値観である。例えば脳死患者からの臓器移植を認める法制度があるが、脳死を人の死と認めるかの問題において、国家は脳死を人の死と認めているわけである。その理屈付けとしては多様なものがあると思うが、ひとつには、人間らしい生き方をしていない以上それは人間として死んでいるに等しい、という価値観があるだろう。これは国家が採用している価値観である。臓器移植法を覚えるとき、条文だけは覚えられないから、理屈付けとして国家の採用している価値観を覚える必要があるのだ。

 ところが、国家の採用していない価値観でも十分説得力を持ちうる。脳死は人の死ではないことを基礎づける価値観として、いやしくも人の体を持ち生命を維持している以上、それを人の死として認めることはできない、とする価値観が考えられる。このような価値観も十分説得力を持つ。つまり、現行法は、いくつかある可能的な価値観のうちから一つの価値観を選びとってそれに基づいて形成されているのである。

 よって、条文や判例を覚えるということは、それを正当化する価値観を覚えるということに他ならないから、しほうしけんに受かるためには国家の採用している価値観を自分のものとして吸収する必要がある。国家の側にくみしなければならない。結局、私が反発を覚えていたのは、自分が国家の側にくみすることに対してだったと思う。だから、国家の側にくみしなければ合格できない試験に受かるための勉強というものに自分を帰属させることができなかったのだ。