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沈黙

 沈黙について考えている。思想良心の自由によって絶対的に保障されるのは、内心の世界観や人生観という人格の本質部分だとされている。この部分については、国家は、国民が沈黙しても何ら不利益を与えてはいけない。一方で、事実の知・不知、物事の是非善悪については、国家が干渉しても差し支えないとされている。では、個人の意思についてはどうだろうか。個人が自律的にこうしたい、ああしたいという、そういう意思については、国家は干渉してよいのだろうか。個人の自律権は、憲法19条というよりはむしろ13条によって保障されていて、13条の文言にあるとおり、それは公共の福祉による制約に服する。とすると、個人の意思は、ある程度国家によって、あるいは私人間において、ゆがめられても構わないようである。

 実際、民事訴訟法159条は、沈黙から自白を擬制している。相手側が主張する事実について何も語らないときは、その事実を自白したものとみなされるのである。訴訟に現れる事実は、世界観や宗教観の真偽を問うものではない。だから、訴訟資料について自白を擬制したところで、特に思想良心の自由を侵害しているわけではない。意思を明確にしないとき、相手の主張を認める意思を持つものと擬制されるのだ。この場合、自律的意思決定の自由は、訴訟経済や相手方の利益、そもそも訴訟の舞台に入ったことによって生ずる真摯な訴訟追行の要求に道を譲るのである。

 あと、民法114条は、無権代理人の相手方に、本人への催告権を認め、本人が沈黙した場合には、本人の追認拒絶を擬制している。法律行為を追認するかどうかも自律的な意思の問題であり、それを明確に表現しない以上、法が勝手に効果を発生させても構わないのである。

 法は沈黙に対して厳しい。人格の本質部分についての沈黙は絶対に保障してはいるが、意思表示しないという沈黙については厳しく対処している。多分法は、自分の意思ははっきり表現し伝えるという近代的な強い自我を国民に要求している。意思を明確にしない場合には、相手方や公的機関のなすことが停滞しかねないから、擬制により一定の法的効果を発生させ、物事を前進させようとしている相手方や公的機関の利益を保護するのである。法は意思表示を国民に要求している。意思についての沈黙はそれほど保護されないのだ。