ヴィーコはデカルト的な明証的真理のみを重視したのではなく、「真らしく見えるもの」を重視する。政治や倫理を導いているものは「真らしく見えるもの」であり、真なるものからすべてを導くことはできない。そして、デカルトが判断(クリティカ)を重視したのに対して、トピカ(発見術)をキケロの伝統にならって重視する。
「真なるものと作られたものは置換される。」国家制度は人間によって作られたのだから、人間はその原理を知ることができる。そして、それは人間が「人類の共通感覚」をもとにして、「知性の内なる辞書」を用い、世界をテクストとして読み解く作業なのだ。
「異教の最初の諸国民は自然本性上の必然からして詩人たちであり、詩的記号によって語っていた。」詩的知恵の根源には隠喩作用があるが、この隠喩作用は言語内部の作用ではなく、言語の創出過程に働く世界の自己同一性の人間の心の中への反映である。
ヴィーコは哲学の傍流とみなされがちであるが、デカルトの数理的で厳密な哲学に比べて、より柔軟で実践的であった。特に、共通感覚として人々の間に流布している常識を大事にし、判断よりも発想の方を大事にするという、より曖昧な主題についての哲学的洞察が優れて現代的である。