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焦点化された歴史

 編年体の通史には中心人物や中心事件が存在しない。人物や事件は相対化され、それぞれだいたい等しい重みでもって記述される。また、編年体の通史においては、出来事の解釈が平準化され、テーマというものが漠然としている。そこでは神の視点からの歴史記述がなされ、何かの内側からのバイアスのかかった歴史記述というものがなされないのだ。

 物語理論で、よく焦点化というものが問題になる。物語がある特定の人物の観点から語られるとき、その物語はその人物に焦点化されている。この焦点を設定するということは、歴史記述に面白味を付加しないだろうか。

 例えば歴史上の特定の人物を焦点として、その人物を巡る歴史を書く。例えば内村鑑三から見た歴史、というものを書いてみる。すると、編年体の通史とは如実に異なった歴史が生成されてくるのが分かるだろう。そこでは、人物も事件も等しくない。重要な人物とそうでない人物、重要な事件とそうでない事件がはっきり分けられ、歴史記述にメリハリが出てくる。また、出来事の解釈も、内村だったら内村なりの解釈が記され、決して平準化された単調な解釈が示されるわけではない。さらに重要なことは、そこでは内村の人生のテーマというのがしっかり見出されるだろうし、それを枢軸として事件に様々な意味を付与することができる。焦点化された歴史というのは、編年体の通史よりもより多くの意味付けがあるのだ。

 また、例えば特定の海を焦点としてみる。すると、そこには地理的な近接性を媒介にした様々な出来事が集まって来て、思いもよらない人物や出来事が集合する独特の歴史空間が生まれる。例えば地中海を巡る歴史だったら、同じ地中海周辺というくくりでも、実に意外な人々や事件が結び付けられ、編年体の通史では見えなかった豊かな結合が期待できる。そして、地中海周辺の出来事がクローズアップされ、地中海の歴史的な意味や役割が見えてきて、地中海のテーマのようなものがうっすらと見えてくる。

 焦点化するということは、歴史にバイアスをかけるということだし、歴史記述に恣意性を与えるということである。それは、公平で客観的な歴史を損なうことになるのであるが、逆に、公平で客観的な歴史など私たちは学校教育で嫌気がさしているわけである。バイアスがかかって再編成された焦点化された歴史は、歴史に対する異なった切り口を与えてくれるし、異なった意味付けを与えてくれるし、明確なテーマを与えてくれる。それは歴史を新しくとらえ直し新しく解釈し直すことであり、歴史に明確な意味を与えることであり、そこに開かれてくる新しい歴史空間は刺激に満ちたものである。