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法制度と国民の意識の乖離

 いくら法制度が変わっても、国民の意識が法制度通りに簡単に変わらないことはよくある。例えば、日本国憲法施行後も、とくに農村では旧来の家父長制イデオロギーは温存されたし、戦後の新しい民法が施行されても、対等で主体的な個人などというものは生活レベルでは形成されなかった。法制度は確かに人々の規範意識をある程度は変化させるのだが、完全に変化させるわけではない。これは、人々が新しい法制度に慣れるのに時間がかかる、などという理由とは別の理由があると考えられる。

 法制度は人間の外面を規律し、道徳は人間の内面を規律する。よく言われる定式である。法制度は人間の行為を規律しても、人間の心までを完全に規律することはできないし、する必要がないのである。法制度は人間社会のあらゆる規範を規定しているわけではない。法制度は、人間社会における多様な規範の存在の余地を残し、法制度が規律しない領域においてはその共同体の緩やかな規範や個人の価値観などが人々の行動を規律するのである。

 だから、例えば法制度は、村の祭りの次第なんかを規律することはないし、個人が夕食に何を食べるかを規律することもない。法制度はあくまでも補充的に働き、国民が自律的に解決できる問題にまで口をさしはさむものではないのである。むしろ、政府が不必要に巨大化してコストがかからないようにするために、法制度の規律する領域は必要最小限でなければならない。

 だから、法制度が個人の意識を変えづらい理由としては二つ挙げることができる。まず、法制度は個人の外面だけを規律し、個人の行動を導くにすぎず、内面にまで干渉できないこと。それは思想・良心の自由の保障にも見て取れる。次に、法制度は政府のコストを最小化するために補充的に働き、実際の規範維持活動は大幅に共同体や個人に委ねられているということ。

 個人は、法制度に抵触しそうな時だけ、うわべだけ取り繕って法制度を遵守すればそれでよい。法制度はその限界を超えてはいけないのである。なぜなら、法制度が個人の内面を規律したり個人の私生活を規律したりするようになると、個人の自由は著しく阻害されるし、法維持のコストが莫大になる。だから、法制度がいくら変わっても、個人の意識はそう簡単には変わらないし、それで十分社会は回っていくのである。