社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

ジグムント・バウマン『コミュニティ』(ちくま学芸文庫)

 

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

 

  コミュニティについては論者によってさまざまな定義があるだろう。バウマンは、コミュニティを安全が手に入るが自由を失う共同体として考えている。逆にコミュニティから離脱すると自由が手に入るが安全を失う。安全と自由は「あれかこれか」の関係にあるのである。

 だから、ここには安全と自由の果てしない葛藤がある。現代という液状的な近代においては、エリートはグローバルに移動でき、非エリートは地域に縛られる。だが、エリートはコミュニティを必要としないし、非エリートの共同体も安全を供給しない。コミュニティを得るためには絶え間ない戦いが必要なのだ。

 本書は社会において安全と自由の両取りをすることはできない、ということを趣旨としている。だがもちろん、安全と自由については様々なグラデーションがあり、人々はそれぞれのグラデーションを生きているのである。バウマンはここにコミュニティ概念を用いて安全と自由の理念型を提示しているが、具体的な生きられたグラデーションにおける検証はなされていない。具体的なグラデーションを示すのが社会学者の次の課題であろう。

速水健朗『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)

 

  食の傾向から政治意識を読み解いてみた本。

 食の傾向により、人々をフード左翼とフード右翼に分けることができる。健康志向で地域主義なフード左翼と、ジャンク志向でグローバリズムなフード右翼。フード左翼は都市の富裕層に多く、有機農法や菜食主義の傾向をもち、環境意識などの政治的な意識を強く持つ。一方フード右翼は貧困層に多く、質よりも量や安さを重視する。

 フード左翼の標榜する有機農法は必ずしも環境にやさしいわけではなく、土地効率が悪いため食糧問題に悪影響を及ぼす。また、フード左翼はスピリチュアルな傾向が強く、食の再魔術化に陥っている。

 本書は決して政治学の本ではなく、特に緻密な議論がなされているわけではないが、日本人の食から左右の政治志向を読み取り、それをマッピングしている点で非常に示唆に富むものとなっている。何を食べるかということはどのようなシステムを支持するかということと結びつき、政治的意識の表出となりうるのである。面白かった。

前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波新書)

 

女性のいない民主主義 (岩波新書)

女性のいない民主主義 (岩波新書)

 

  政治学の通説をジェンダーの観点から読み直す画期的な本。

 「男性は男らしく、女性は女らしくなければならない」とするジェンダー規範が社会には存在し、社会進出し発言する男性と家を守り話を聞く女性という役割分担が成立してしまっている。政治の様々な過程において男性支配がしみ込んでいる。

 民主主義は女性をないがしろにしてきた。男性の選挙権は女性の選挙権に先立ち成立し、女性の意見が十分反映される民主主義の成立は遅れた。社会政策にしても、男性稼ぎ主モデルを促進するような政策が多く実行され、所得税配偶者特別控除や終身雇用、家事・育児・介護のケア労働を女性が負担するというロールモデルなど、女性が社会進出しづらい制度が出来上がっている。そして、女性政治家が少ないことも女性の意見が国政に反映されない原因であり、そもそも立候補者として女性を擁立する機運が少ない。

 本書は、政治学の教科書的記述にいかにジェンダーの視点が欠如しているかを批判的に指摘したうえで、女性の参加できる民主主義への道筋を示すものである。マンスプレイニングやマンタラプション、つまり男性が主な説明役となり、女性の話を男性が遮るというよく見る風景から変えていかなければならないものであり、一朝一夕で状況が改善されるものではないが、時代はどんどん男女平等へ舵を切っている。

現場とは何か

 よく「現場主義」という言葉が使われる。現場の状況を把握しておかなければ重要な意思決定はできないということである。では現場とは何であろうか。それは、物事が実際に起こっていて、その物事の詳細な情報が実感として手に入る場所である。何かサービスを提供している現場であれば、その現場でどのようなニーズがあってどのようなサービスの問題点があるか、それは現場に行かなければわからない。
 現場が特に問題となるのは、人々の大きな関心を引く出来事の現場であろう。例えば広範な人権侵害が行われていたり、重要な法改正が議論されていたりする現場である。行政などはそれらの出来事に対して何らかの対応が迫られる。その対応を決定する際、現場から上がってくる情報が極めて重要となるのだ。現場には具体的で詳細な情報がある。そして問題への対処も最終的には現場で行われる。
 何かが大きく変化するとき、我々はそれに対して何らかの対応に迫られる。我々は社会の変化に対応し適応しながら社会を運営していかなければならない。その際、変化の現場に赴き、変化の詳細で具体的な情報を手に入れる現場主義は欠かすことができない。そうでなければ、その変化が具体的にどのような変化であり、その変化が具体的な我々にどんな対応を要求しているかがわからないからである。
 例えば堤防が決壊したとする。その場合、現場ではどのくらいの規模の決壊が起きていて、どのくらい水があふれ出ているか、その現場の状況こそが上層部の対応を決定する。現場を把握することは意思決定の前提として欠かすことができないのだ。

中森弘樹『失踪の社会学』(慶應義塾大学出版会)

 

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

 

  失踪の現場において問題となっている親密なるものへの責任について考察した学術論文。

 現代においては人間関係が伝統的な拘束から解放され、各人が自由に取り結べるようになった。しかし、同時に人間関係が自由になるほど、その親密な人間関係が当事者にとって重たいものになってきた。人間関係は自由というよりそこからの離脱を許さないものとなっている。

 失踪というものは、親密なるものへの責任(親密なものと応答しなければならないという責任)から逃れようとする行為であるが、失踪によって実際に責任を逃れることは容易ではない。様々な条件が重なって、失踪が個人の責任を免除することになる可能性があるのみだ。

 本書は失踪という現象を題材にしながら、現代における親密な他者とのかかわりについて責任の観点から論じている。自由なようでありながら不自由な現代の人間関係。その実態を明らかにしている点で非常に興味深い。非常な労作という感じがした。