社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

橋本卓典『未来の金融』(講談社現代新書)

 

  著者はこの「捨てられる銀行」シリーズの第一巻で、金融庁が地銀に対して、形式的な尺度で融資を決めるのではなくその企業の将来性や地域密着性などを総合的に考慮して融資すべきとの指針を出したことを論じている。第二巻では、金融庁の出した指針として、地銀の手数料獲得のための金融商品販売を批判し、より顧客の利益重視の金融商品を売るようにしたことについて論じている。

 第三巻である本書では、それらの指針の背後にある哲学について論じている。過去のことや現在のことは計測しやすい。そして営業利益なども計測しやすい。だが、金融庁が重視し始めたのはそのような容易に計測できるものではなく、例えば銀行職員がどれだけワークライフバランスを実現させプライベートを重視できているかとか、その融資によってこれからその地域がどれだけ活性化されていくかとか、その金融商品によってどれだけ顧客満足度が増すかとか、そのような今までほとんど計測されてこなかったか、あるいは未来のことなので計測が困難であるか、そういう「計測できない世界」なのである。

 本書はこのシリーズの第一巻と第二巻を敷衍したものであるが、金融庁の指針の背後にある哲学をえぐりだしているのが素晴らしい。この「計測できない世界」への志向は、金融庁だけでなく今や時代のトレンドであり、その「計測できない世界」を計測しようとする技術がどんどん開発されている。これまで注目されてこなかったもの、そして未来に生じるもの、そういうものを計測することが国民の利益を増大するにあたって必須となっている。

北野弘久『納税者の権利』(岩波新書)

 

  1981年刊行であるが今でもなお訴求力のある税制改善論。

 北野はまず、納税者の権利として、財産に不当な負担を課されず課税には民主的コントロールを及ぼすという租税民主主義ではたりず、税金の使途にまで民主的に統制すべきだと唱える。納税者の権利は、財産を脅かされないという消極的な権利だけでなく、収納された税金の使い道までをコントロールする積極的な権利も含むとするのである。

 また、北野は、税制度を考えるにあたっては応能負担原則をとるべきとする。というのも、憲法の平等主義からは、能力に応じて課税するという原則がふさわしいからである。その観点から、北野は、大企業を優遇する制度や高所得者を優遇する制度が応能負担原則に反していると糾弾する。

 本書は租税法学の根本問題を扱っているだけでなく、その細部に至るまで細かく検討し、原理原則に照らして矛盾しているものには容赦なく批判を加えていく稀有な書である。書かれたのは多少古い年代だが、納税者の権利を重視するこの視点は我々国民が大事にしなければならない視点であろう。目からうろこであった。

職場の構造

 属人的思考から構造的思考へ――問題の真の解決のためにはこのような思考様式の転換が必要です。理由としては、一つには人を変えるのは難しいけれど構造を変えるのは比較的容易であること、そして問題の原因をさかのぼるとその人自身の問題ではなく場の構造の問題に帰着するケースが多いこと、が挙げられます。

 近年Googleが「プロジェクト・アリストテレス」というプロジェクトで、職場の生産性を向上させるのは、チームのメンバーの能力でも働き方でもなく、他者への心遣いやどのような気づきも安心して発言できる職場の雰囲気であるという研究結果を出したことを知っている人は多いと思います。そのような場の雰囲気のことを「心理的安全性」と言い、最近この言葉をいろんな本で目にすることも多くなりました。心理的安全性の議論でも職場の構造に注目されており、メンバー個人の資質はむしろ生産性とは無関係とされています。ここにも属人的思考から構造的思考への転換が見られます。

 そして、現代日本に目を向けると、職場の多くの問題は無駄な仕事の多さと人員不足から生じていることが観測されます。事務仕事の増大で無駄な仕事が増えたのは、デヴィッド・グレーバーが著書『ブルシット・ジョブ』で痛烈に批判しているのをご存じの方も多いと思います。そして、仕事が増大しているのに人員は増えない。そうすると何が起きるか。

 まず、仕事からゆとりが失われます。ゆとりを持って対応すれば楽しいはずの仕事も、量に追われてあくせくしながらやっていると苦痛になってきます。本来楽しいはずであった仕事が途端につまらなくなります。労働から楽しみが失われるのです。

 次に残業が増えます。残業は少子化を加速させ、健康を失わせ、業務効率を下げます。だから多くの欧米先進諸国では残業は法的に禁止されています。日本はまだそこに追い付いていないのでいまだに残業しています。残業していると気持ちが暗くなり、イライラしたりして職場の雰囲気を悪化させ、周りの人たちの心理的安全性を下げてチームの生産性を下げます。

 さらに、ミスが増えます。忙しいと手のかかる仕事に時間をかけている余裕がなくなります。そうすると手のかかる案件が放置されたりするし、また作業効率や注意力が下がるため凡ミスも増えます。

 職場において、その人がどういう人であるかは二次的な問題です。それよりも場の雰囲気を良くして心理的安全性を確保することが大事です。だから、細かいミスにいちいち腹を立ててメンバーを委縮させるなどあってはなりませんし、ミスなどの原因を個人に帰着させるのは問題の本質を見誤っています。現代日本の職場の構造的な問題点としては、何よりも無駄な仕事が多くその割に人員が不足しているということ、これに尽きると思います。もろもろの問題はそこから派生しており、個人がそれらの問題の原因ではないのです。

運も実力のうち

 「運も実力のうち」というと、予期せぬ幸運が降ってきて戸惑っている人に、周りの人が冗談半分にかける言葉、というイメージがある。だが、「運も実力のうち」というのは意味が形骸化したイディオムではなく、事実を指示している言葉のように思える。

 「結婚したいなー」とことあるごとにつぶやいている人がいるとする。だが、その人がもし運命の人が目の前に現れて自動的に恋愛が始まると考えているのならば、それはほとんど実現しないであろう。「結婚したいなー」と言っている人が、地道にダイエットをしたり、婚活アプリに登録したり、結婚する可能性を高める行動を現実に行っているのならば、結婚は実現するかもしれない。その際、結婚は幸運として訪れるかもしれないが、その幸運が訪れる可能性を高めたのは本人なのである。

 運とは望ましい結果である。実力とは運を実現するために布石を敷いたり伏線を張ったりする能力のことである。結果は必ずやってくるとは限らない。だが、結果が生じる可能性を高める行為は無数に存在する。結果が生じる可能性を高める行為を継続的に行える能力、それこそが実力なのだ。

 だから、「運も実力のうち」とは、幸運をもたらすのは日頃の地道な結果到来の可能性を高める行為を続ける実力である、ということを意味しているのだ。

世間の消滅

 コミュニティに属するということは、そのコミュニティのルールに縛られる一方、人間関係などによる恩恵をそのコミュニティから受け取るという両義性がある。コミュニティに属していれば何か困ったことがあっても助けてもらえるかもしれないが、一方で上下関係など理不尽なルールに従わなければならないかもしれない。自由か安心か。人間はコミュニティに属する度合いに応じてこのトレードオフに直面する。コミュニティに属していればとりあえず安心だが、コミュニティから解放されれば自由なのである。

 日本においてコミュニティは世間という形をとってきた。世間に属していれば安心、しかし世間から解放されれば自由。ところで最近この世間というものがあまり機能しなくなってきているように思われる。特に若い世代にとって世間は消滅しかかっているのではないだろうか。

 例えばあなたの会社の新入社員が腹痛で救急車を呼んだとする。そして結局病気ではなく軽症で帰されたとする。このとき何が起こっているのだろうか。まず、その新入社員は救急車を呼ぶということの「こと」の大きさをそれほど考慮していない。世間体を考慮していないのである。次に、その新入社員は困ったときに友人やコミュニティの成員などに頼れず、救急車にしか頼れなかったのだ。その新入社員は世間が自分を助けてくれるなどとは思っていないのである。ここにあるのは、世間がその規範的役割を果たしていない現状と、世間が安心を提供する社会関係資本として機能していない現状である。

 現代の若い世代にとって、もはや世間は失効しているのかもしれない。世間にとって代わるのは法制度であり理論である。実際、世間が有効である時代であっても、世間の手におえない事案は法制度や理論によって対処されてきたのだ。もしくは、すでに与えられた世間ではなく、自ら構築した人間関係によって世間は取って代わられている。

 世間が失効しつつある現代において、困った若者はすぐ救急車を呼ぶだろうし、すぐ訴訟を起こすだろうし、すぐ理論を振りかざすだろう。それは決して遠い未来ではなく、現在進行形で進行しつつある社会の姿である。