社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

ジグムント・バウマン『近代とホロコースト』(ちくま学芸文庫)

 

 近代がホロコーストを生み出すとするバウマンの主著。ホロコーストは文明の代表するものの集大成であり、愛すべき近代社会の別の顔である。ホロコーストは、思想と行動を経済性と効率性に従属させ、正当な官僚的手続きや正確な定義、細かな官僚的規制、法の順守を重視する近代官僚制によって生み出された。また、ホロコーストにおいてはユダヤ人の殺害は殺害を実行するものから距離を置いて行われた。近代においては行為とその結果の物理的・心理的距離が生み出されるため、それが道徳的抑止力を停止させた。犠牲者の人間性は不可視にされたのである。近代はホロコーストを生み出した必要条件である。

 本書はホロコーストという歴史の特異点を、単なる特異点とはみなさず、近代社会の合理的帰結としてとらえている。ドイツ民族の特殊性やユダヤ民族の特殊性といった問題よりも、何よりも近代社会の諸条件がホロコーストを可能にしたことに注目するのである。一種の近代批判ではあるが、このような主張は相当な議論を生んだのではないかと思われる。近代推進派の人にとっては頭の痛くなるような指摘であり、何とかして論破しなければならない論点である。非常に論争的で面白かった。

石井遼介『心理的安全性のつくりかた』(日本能率協会マネジメントセンター)

 

 心理的安全性の高いチームを作るためのやり方。心理的安全なチームとは、メンバー同士が健全に意見を戦わせ、生産的で良い仕事をすることに力を注げるチームのことである。良かれと思って行動しても罰を受けることのないチームのことで、対人関係においてリスクをとっても安全であるチームのことである。心理的安全性の高いチームはパフォーマンスと創造性が向上し、離職率が低く、収益性が高く、多様なアイデアを効果的に活用することができる。

 日本における心理的安全性の高いチームとは、①話しやすさ、②助け合い、③挑戦、④新奇歓迎、の4つのファクターを備えているチームである。①仕事と相手の状況を把握し、多様な視点から状況を判断し、率直な意見とアイデアを募集する。②トラブルに迅速・確実に対処するときや通常より高いアウトプットを目指すときに必要。③チームの活気を与え、時代の変化に合わせて新しいことを模索し、変えるべきことを変える。④メンバー一人一人がボトムアップに才能を輝かせ多様な観点から社会の変化をとらえて対応する。

 「心理的安全性」という言葉は、経営学の本を読むと必ず一度は目に入るくらいに浸透してきた言葉だと思うが、実際それを現実のチームに持ち込むのはそれほど容易ではないと思われる。だが、一人一人が意識を変え、一人一人が心理的安全性を目指していけばおのずとチームが変わり組織が変わっていく。そのような勇気を与えてくれる本である。とても素晴らしい本だと思った。

経験は教養である

 教養を身に着けることとは読書や学問によって人格形成することだと一般にはとらえられている。だが、読書や学問だけでなく人生経験もまた教養を養うものだと私は考えている。

 読書や学問で身に着けられるものは、知識であり、ものの見方や思考様式であり、世界観や人生観である。経験によっても人はそれらを獲得できると考えられる。

 例えばある人が育児の経験をしたとしよう。その人は育児にまつわる情報収集をして知識を得、また実際に育児をすることで子どもの動きや反応などについて実際的な知識を得る。育児は知識を養う。

 また、育児をすることによって、その人は育児の大変さを実感し、世の母親を取り巻く状況に敏感になるかもしれないし、またケアの経験から人とともにあることなどについて考えを深めるかもしれない。育児は人の物の見方や思考様式を変える。

 さらに、育児をすることによって、その人は自分の人生もまたこのような膨大なケアによって成立した・しているということを実感し人生観が変わるかもしれないし、子どもを中心として成立する別の世界の存在にも気づくかもしれない。育児は人生観や世界観にも影響を及ぼす。

 以上より、人生経験も読書や学問同様教養を養い人格形成するものだと考えられる。そして、人生経験は単なる教養を超えるものである。人生経験が人に与える現実感、実際にそれをやってこういう反応が返ってきたという実感は読書や学問には希薄なものである。読み物にはないリアルな実感は強烈であり、それこそが人生経験が単なる教養を超えて人間の人格形成に影響を及ぼす点である。

松井茂記『性犯罪者から子どもを守る』(中公新書)

 

 性犯罪者の登録・公表制度であるメーガン法の合憲性について論述。児童への性犯罪は児童の心身を著しく傷つける残忍な犯罪であるため、再犯を防止するため、前科のある人間の情報を登録したりインターネットで公開したりする法律がアメリカでは制定されていて、それをメーガン法と呼ぶ。

 メーガン法憲法上問題となり、事後法禁止条項や二重の危険禁止条項に違反しないか問題となるが、そもそも登録や公表は刑罰ではないので違反はない。また、残虐な刑罰禁止条項に違反しないか問題となるが、これもそもそも登録・公表が刑罰でない以上違反にならない。また、手続き的デュープロセス違反が問題となるが、告知や聴聞を行わなくても、性犯罪を防ぐという重大な利益がある以上、憲法違反とはならない。以上より、メーガン法憲法違反とはならない。

 本書はアメリカで導入されている性犯罪者対策法であるメーガン法について、その成り立ちと憲法的議論について細かく記述している。確かに日本でも残虐な性犯罪が起こればメーガン法制定の機運が高まるかもしれない。その際、著者の議論のようなものが展開され、メーガン法は制定されてしまうかもしれない。だが、メーガン法は犯罪者のプライバシーを著しく害し、社会復帰を困難とするため、情報にアクセスできる人間を限定するなどの配慮が必要だと感じる。いずれにせよ法律学のまっとうな議論が展開されている。

小林正弥『ポジティブ心理学』(講談社選書メチエ)

 

 今の世の中、精神論は軽視される傾向があります。特に若者の世代は精神論をほとんど信じていません。それは精神論が合理的でなく科学的根拠に乏しいのが一因でもありますが、ほかの理由としては精神論があまり楽しいものではないことも挙げられると思います。

 これからの時代、精神論にかわる「心の在り方」として、ポジティブ心理学の知見を有効活用していくべきです。というのも、ポジティブ心理学は精神論よりも科学的であり、基本的に楽しさを重視するものだからです。

 ポジティブ心理学とは、メンタル・ウェルネス(心の幸せ)が心身の健康を導き、学業の成績を向上させ、仕事の業績を向上させる、そういうことを科学的に証明する学問です。ここでは仕事を例にとって、精神論とポジティブ心理学を対比させていきましょう。なお、仕事における精神論者としては、「仕事はつらくて楽しくないけれど、気合や根性で乗り切っていくべきだ」と考えている人を想定することにします。

 ポジティブ心理学にもいろいろな立場がありますが、ここでは、PERMA+Hを重視するモデルを考えます。

 PとはPositive emotionのことで、ポジティブな感情のことです。精神論者はこのポジティブな感情が足りません。仕事いやだなあとか楽しくないなあと思っていて仕事についてネガティブな感情を抱いています。そうではなく、仕事を楽しいと思えること、仕事についてポジティブな感情を抱くことがよい結果を導きます。

 EとはEngagementのことで、熱心な参与・従事、熱中する没頭・没入のことです。精神論者は仕事に没入することができません。仕事がいやだからです。そうではなくて、仕事の楽しさを見出しそこに没入していくということ、それがウェルビーイングを導き、良い結果を導きます。

 RとはRelationshipのことで、人間関係のことです。精神論者は、自分が根性が足りないとみなした人間のことを叱責したりして人間関係や信頼関係を悪化させます。パワハラなどがいい例で、職場のウェルビーイングを低下させ職場の業績を低下させる最悪な行為です。そうではなく、常々相手を尊重して良好な関係と信頼関係を築くことがよい結果を導きます。

 MとはMeaningのことで、意義・意味のことです。精神論者は仕事の意味について考えることがほとんどありません。与えられたことだから仕方なくこなしていくのが精神論者です。そうではなくて、自分の仕事にはどういう意義があるか自分なりに考えて自分の意見を持つことが仕事を意味のあるものとし良い結果を導きます。

 AとはAccomplishmentのことで、達成のことです。この点についてのみ、精神論者は頑張ろうとします。とにかく気合を入れて頑張って達成するんだ、と意気込みます。ところが、この達成に至るには、他のポジティブ要素を具備していないとなかなか容易ではありません。他の点についてネガティブだと、精神論者が目的とする達成がより困難になるのです。そうではなく、様々な点でポジティブな要素を具備し、どんどん達成を重ねていくことに喜びを感じることが、さらなる達成を導きます。

 HとはHealthで健康のことです。精神論者はいやいやながら残業したりしてなんて仕事は苦しいんだろうなどと思いつつ仕事をするので、当然気分は落ち込みますし、体の健康も害していきます。そうではなくて、何事にも楽しみを見出し、短時間で効率よく仕事をし、早々と仕事を切り上げ趣味や家庭の充実を重視することにより、良い結果が導かれます。

 ここで登場した精神論者は一つのステレオタイプに過ぎませんが、割とそういう人は職場にいるのではないでしょうか。精神論はもはや時代遅れで科学的にも根拠がなく、ポジティブ心理学からみてもとても良い結果が出せるものではないことがわかります。精神論からポジティブ心理学への切り替えがこれからの時代は重要になってくるでしょう。