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人権確認の訴え

 憲法というものはろくに仕事をしていないように思える。法律というものが、事実をもとに効果を発生させるという仕事をせっせとこなしているのに、憲法はたまにその法律が自分に適合しているか適合していないか裁判所に判断させているだけに思える。つまり、憲法が事実に適用されることによって効果が生み出され、そのことによりそのまま給付・形成・確認の判断がなされるということが、訴訟の現場では起きていないのではないか。

 これには理由がある。まず、人権の発生の要件は極めて単純である。「何人」「すべて国民」であれば人権が発生する。この要件はたいがいの場合証明を要することもなく明らかである。わざわざ事実を憲法にあてはめなくても、当たり前のように人権は発生していて、それをいちいち確認する必要がない。

 そして、仮に「学問の自由の確認の訴え」を提起しても、おおかた訴えの利益に欠ける。過去に学問の自由が侵害されたのならば損害賠償を請求すればいいし、現在も侵害が継続中あるいは将来侵害が確実視されるのならば差し止めの訴えを起こせばよい。確認の訴えの補充性から、人権確認の訴えは訴えの利益に欠けるのである。

 また、今の制度では学問の自由が十分保証されていないから国に政策定立を意識させるものとして人権確認の訴えを起こすならば、そもそも訴えに事件性が欠け、訴訟要件がないことになる。

 人権確認の訴えというものは見たこともないが、考えてみれば以上のような理由があるのである。