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論理も正義の一つにすぎない

 判例は、12歳の少年に責任能力を認めず(大判大6・4・30)、11歳の少年に責任能力を認めている(大判大4・5・12)らしい。責任能力が年齢とともに備わっていくものだとする通常の理解からすると、これは矛盾している。12歳に責任能力がないのならば、11歳にも責任能力がないはずである。にもかかわらず11歳に責任能力を認めている。

 これは、前者が監督者責任を肯定できる事案であり、後者は使用者責任を肯定できる事案であったため、被害者に資力のある者から賠償させるには、前者では監督者責任発生の前提としての責任無能力、後者では使用者責任発生の前提としての責任能力の存在、を認める必要があったからだとされる。

 つまり、被害者の実効的救済という正義を重視することにより、理論的な整合性が後退しているのである。法律学は論理だけの学問ではなく、正義の学問でもある。むしろ、法律学は正義の学問であると言ったほうがいいかもしれない。論理は正義を実現するための道具に過ぎず、正義を実現するためにはときには論理は後退しなければならない。理論的整合性も一つの正義であり、それと対立する被害者の実効的救済などの正義が現れた場合は、二つの正義を比較して、どちらを優先するべきか考え、被害者の実効的救済が優先すべき場合には、理論的整合性は道を譲らなければならない。論理は絶対的な価値ではなく、人権や平和といった他の価値と並立する相対的な価値にすぎないのである。法律学においては、論理も一つの正義にすぎない。