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補充性と教育

 補充性と断片性は違うらしい。カウフマンが『転換期の刑法哲学』で書いていた。なんでも、断片性というのは、国家が不必要な消極的介入をしないことを言うのに対し、補充性というのは、国家が不必要な積極的介入も消極的介入もしないことを言うらしい。言い換えると、(1)法の断片性というのは、国家が看過しがたいような国民の行為について不作為義務を課したり刑罰を科したりする、それを最小限にとどめるということである。一方、(2)それに加えて、法の補充性というのは、国家が、国民の相互扶助などに期待し、積極的に社会政策をしたりすることを最小限にとどめることも含むらしい。

 現役を退かれた教師の方と話をする機会があったが、教育の場でも、補充性の原理は働くらしい。つまり、教育の現場、すなわち学校という部分社会では、教師が国家機関に対応し、生徒が国民に対応する。教師が権力を担い、生徒の行為を消極的に監視し、また生徒を積極的に教育する。ところが、この監視においても、何から何まで監視すればいいというものではない。生徒が自発的に悪を悟り自らを監視することに期待するという補充性の原理が妥当する。また、この教育においても、何から何まで教育すればいいというものではない。生徒が自発的に自ら学ぶことに期待するという補充性の原理が妥当する。

 結局、権力というものはある種のゆがみであって、それを発動するのは社会に傷跡を残すことになる。傷跡を残すことに最も慎重でなければならないのが教育の現場であり、その教育の現場での権力の発動にもまた補充性の原理は妥当するのである。もちろん、生徒が未成熟ゆえ、教育の現場だからこそ補充性が後退する、つまり教師が消極・積極ともに介入する機会が増えることもままあると思われるが。