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湯浅博雄『バタイユ』(講談社)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

バタイユ―消尽 (現代思想の冒険者たち)

 バタイユは、近代が生み出した、人間の基本的な活動であるところの知・言語・労働・神について異議申し立てしている。その基礎にある思考は、みずからと対象の間に同質性を設定して理解していくのではなく、絶えず対象との異質性に気づくことで、それが自らの知や理解の枠外にあることを認めることである。

 知や言語は、人間と対象を同質化してしまい、対象の持つ同質化できない秘められた部分や聖なる部分をとらえることができない。人間はそもそも動物的に、連続的な世界の中で生きていたが、死を内面化することで否定の力、無の力も内面化してしまった。人間は無の力によって自らを自然から切り離し、悟性によって対象を事物化する。

 そして、人間は労働をすることにより、今まさに生きるべき時間を、後の時間へと繰

り延べるようになった。つまり、現在の衝動的な消費ではなく、その消費を後から大量に得るために、農耕・牧畜などをして、消費を未来へ先延ばしするようになった。人間は自然を加工し、自らに有用な「事物」と化させた。贈与もまた将来の返礼を期待するものであり、そのようにして人間は事物の秩序と論理、労働の論理に組み込まれていき、直接的な消費が出来なくなった。

 だが、人間はそのようにして動物性を拒否し、「俗なる世界」を作り出したが、根源的には動物性を望んでおり、その俗なる世界の規範を破って再び動物性を取り戻したいという根源的な欲望を持っている。それは性的なものであり、聖的なものである。

 原始的な供犠は、価値あるものを何の将来を見込むことなく破壊することにより、「消尽」し、供物の事物性を破り、その本来的な霊的真実を再生させるのである。

 また、愛の体験においては、人間は神への愛に基づく信仰の共同体を築くのではなく、極めて根源的で、互いに相容れないけれども接近してやまない体験をする。愛において人間は自らを消し去っていき、それと同時に、自らの外に出ていく。愛は意志するものでなく、受け入れてしまうものだ。愛の関係においては、双方が主体でも対象でもなく、社会生活とは異なる次元での関わり合いを持つ。愛もまた自らを消尽し、「至高」な瞬間へと接近する体験なのだ。また、芸術もまた、その力故に俗なる世界からの離脱を可能にする。

 バタイユの視野にあるのは、我々が当たり前のように使用している知や言語、当たり前のように所属している共同体である。だが、それらは全て、事物化し、俗なるものとして、人間の根源的な語り得ない聖なる領域から外れてしまったと考える。近代社会はその聖なるものをいかに制御し統制するかというところから始まったと思うが、バタイユは近代社会の枠組み自体に疑義を投げかけている。この提言は面白い。