社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

鷲田清一『だれのための仕事』(講談社学術文庫)

 

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

 

  単に労働を問題にするだけでなく、余暇をも視野に入れて、人間の活動を総合的に見た上で展開される人間の「生きがい」論。現代人は「前のめりの生活」をしている。全て何かの目的のために現在は費やされ、それゆえ現在の充溢がなく、現在が空疎化している。未来の始まりとして現在をとらえていて、新しいものの追求に余念がない。人間は価値を生み出す「インダストリー」の精神に従属し、余暇や遊びにまで効率性や合理性が要求される。人間の生産は自己の身体にまでむけられる。ファッションやダイエットによって身体を生産していき時流に合わせることがよく行われる。

 そのようにして失われていった現在の価値をとりもどすために、例えば「ディープ・プレイ」、自らの存在の根拠を賭けた遊びへと著者は眼差しを喚起する。出現/喪失、緊張/弛緩、そういう存在の開閉の伴う遊びこそがやりがいがあるのである。そして、人間の身体自体も、緊張一点張り・弛緩一点張りではなく、緊張と弛緩・人称と物質のあわいで揺れ動く遊びを持った状態が望ましい。

 目的主義的な労働に対抗するものとして、著者は家事やボランティアを挙げる。家事は人間がその自然性を自ら管理する最後の場である。人間に対するケアはことごとく外部化され市場化されていったが、そのような生産のメカニズムから外れ、人間の自然性を確認するものとして家事は意味を持つ。また、ボランティアは自分にしかできないこと、他者にとって意味のあること、交換可能な人間ではなく特定のかけがえのない人間としてすることである。労働も余暇も、インダストリーの精神から逃れ、常に自分を超えていくところにやりがいがあるのである。

 成長や生産が人生の至上の目的になっているということは、私自身常々感じていることである。それは社会的に承認された約束事であり、その精神に乗っかっていれば安心だがそこから外れると不安になる。だが、インダストリーの精神は生きることそのものを空疎化してしまうと言われればその通り。我々はどこかで、労働そのもの、余暇そのものの味わいを感じているはずで、そこをもっと強調して追求していくことで現代人のむなしさを解消しようとする本である。