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育児のつらさの正体

 わが子は生後8か月でもうすぐ9カ月になる。私もまた父親として育児に携わったが、育児はなかなかつらいものである。抱っこしたり世話をしたりという介護労働的なつらさは確かにある。だがそれは労働としてのつらさである。睡眠不足になったり時間が自由に取れなかったりというのも労働としてのつらさである。だが、育児の本当のつらさは別のところにあるのではないだろうか。

 赤ちゃんというのは絶えず世話をし気にかけていないと命を失ってしまいかねないもろい存在である。このもろい存在の命を引き受けるということ。その責任の重さこそが育児のつらさの正体ではないだろうか。同じ育児であっても、他人から預かった子供であったらそこまで重い責任は生じない。何らかの事故で死んでしまってもそれは他人の子供の死でしかないからだ。だが、自らの子供が死ぬとなるとただ事ではない。妻が大変な思いをして産んだ子ども、私が繊細に気にかけてきた子ども、私たちの遺伝子を受け継ぐ子ども、私たちとともに一つの家族を構成する子どもである。それだけ非常にかけがえのない子供を失うということに私たちは耐えることができない。だからこそ、赤ちゃんの命のケアには細心の注意を払うし重大な責任が生じるのである。

 子どもの世話は多岐に及ぶ。服を着せたり、爪を切ったり、お風呂に入れたり、おむつを替えたり、遊んでやったり、抱っこしたり、授乳したり、散歩に連れて行ったり、寝かしつけたり。だがこれらの労働的な側面はすべてたった一つの価値へと収斂する。その唯一の価値が子どもの命の維持なのである。育児は水平的には介護労働として進展していくが、垂直的には子どもの命の維持という価値と責任に突き刺さっている。この垂直で重い突き刺さりこそが育児のつらさの正体だ。