社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

私たちは疲れている

 一定以上勉強している人なら、多くが「自律した個人」として生きようと思っているだろう。そして、「成熟した大人」として生きようと思っているだろう。だが、日々労働しながら生きていると、このよう自律や成熟に疲労を感じることがないだろうか。

 何か職場で理不尽なことがあったとする。すると、自律した大人であれば、それについて自らの意見を形成し、職場に訴えかけるなどの行為をするかもしれない。だが、そういうのはとても疲れる。それよりも多少の理不尽についても我慢して唯々諾々と仕事をしていた方がかえって楽だったりする。常識や場のルールにとらわれず、理性の力で問題を解決していこうとするのは近代的個人のすることかもしれないが、我々労働者はそういった自律的行為をするにはあまりにも疲れ切っていないだろうか。「カイゼン」は事務処理などについて、自分の権限の及ぶ範囲でなら奨励されるが、それを超えて管理職に働きかけるなどするととても疲れる。

 我々労働者はとにかく日々体力を削って膨大な仕事をしなければならない。その膨大な仕事に疲れ切っていて、近代的個人の本懐であるところの「不条理との戦い」や「人権の主張」などをしている余裕がない。そんなことをしているとかえって組織の側からマークされ、悪い評価を下される恐れすらある。

 我々労働者は個人としてはとても弱い。個人として組織と戦ったところでつぶされるのが目に見えているし、疲労するのは目に見えている。ある意味、自律や成熟を「使い分ける」ことが本当の自律や成熟なのかもしれない。自分の力の及ぶ範囲内、権限の及ぶ範囲内であれば、そこでは自らのポリシーを貫き体制を改善していけばいい。そこでは自律した大人としてふるまう。自分の力の及ばないところや権限の範囲外については、もはやただの白痴に近い言うことを聞くだけの搾取される労働者でいい。

 私たち労働者は日々の仕事や家事育児などで疲れ切っている。その上さらに問題を抱え込む余裕はない。ではあっても、「自律した個人」「成熟した大人」でありたい。それであるなら、自らの人格を使い分けるしかない。自らの掌の上でなら自律した大人、その範囲外であれば隷属する労働者。その使い分けができるということが、本当の意味での「自律した個人」「成熟した大人」ではないだろうか。