社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

仕事と教養

 会社で働いていると、同僚のほとんどは教養を持っていない。それでも会社は問題なく回っていくのである。そのような状況を見ていると、やっぱり教養なんて社会で何の役にも立たないのだなあ、と思ってしまいがちである。だが、教養それ自体というよりも教養を身につける過程で手に入れる能力は、仕事でも十分役に立つと思われる。
 まず、文章読解能力。教養人はよく本を読むため、難解な本でも十分読解できる。ところで、仕事ではしばしば難しい法律の文言などを読解しなければならないことがある。そういうとき、教養人は難なく内容を理解できるのである。
 次に、作文能力。教養人は文章を書くことに長けているため、仕事で文章を作成する場合に特別な訓練がいらない。もちろん職種に応じた文章の決まりごとはあるだろうが、基本の作文能力が出来上がっているため、文章の作成も比較的容易に行える。
 そして、情報検索能力。教養人は自らの教養を広げるために常に情報収集を行っているし、必要な知識を得るための必要なルートについてわきまえている。ところで、仕事では様々な領域の知識が必要とされることが多い。その際のウェブや紙媒体からの情報収集能力に教養人は長けているのである。
 さらに、創造力。おそらくこれが教養人の一番の強みだと思われる。企画の立案などにおいてよい立案をするためには、ベースとして幅広い知識が必要になってくる。教養というものは何よりもこのベースにある幅広い知識であって、それを備えている教養人は優れた立案を行えるのである。
 もちろん、これらの能力は特に教養を持たない人たちでも仕事を積み重ねていくうえで自然に獲得していくものだと思う。だが、教養人はそもそもの出発点においてこれらの能力に長けているため、仕事を行うにあたっても一歩先んずることができる。教養それ自体が直接役に立たなくても、教養を育むにあたって獲得する能力は仕事の役に立つのである。

 

渡辺靖『文化と外交』(中公新書)

 

文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代 (中公新書)

文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代 (中公新書)

 

  政府が相手国の国民と意見、関心、文化を交換して理解すること、それを通して相手国の国民の「心と精神を勝ち取る(win hearts and minds)」ことをパブリック・ディプロマシ―という。本書はこのパブリック・ディプロマシーの入門書である。

 パブリック・ディプロマシーはハード・パワーに対するソフト・パワーとして有効な外交の手段である。古くはギリシア、ローマの時代から中世を経て、延々と行われてきた。だが、パブリック・ディプロマシーは結局は自国中心主義なのではないかといった疑念や、逆に普遍主義を夢見すぎているといった疑念が呈されている。パブリック・ディプロマシーの成功と失敗は微妙な国際事情に影響されており、数多い成功例の裏には数多い失敗例がある。

 近年ソフト・パワーとして国際関係論などでもよく論じられている文化による外交であるが、本書はその具体例を、途上国から先進国、過去から現在に至るまで豊富に取り上げ、その本質に迫ろうとする。焦点を絞った文化外交政策は成功しやすいと述べられているが、それよりも多様な主体による漠然とした文化交流こそ漸進的に世界平和を推進するのではないかと思われる。

四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書)

 

「かわいい」論 (ちくま新書)

「かわいい」論 (ちくま新書)

 

  世界を席巻する「かわいい」日本文化。その現象と本質に迫ろうとする著作。

 かわいいの美学は枕草子にも現われている。小さく幼げなものである。それが基幹としてありながら、いまや女子高生は何に対しても「かわいい」と連呼する、「かわいい」と言っておけば大丈夫、のような様相である。「かわいい」には様々なニュアンスがあるが、それは未成熟なものや幾分グロテスクなもの(「きもかわ」)などをその本質として含む。それは日本文化の「縮み」志向とつながっている。

 「かわいい」が文化的に無臭であるわけではない。そこには日本らしさが含まれている。だが、これが世界を席巻する際には、それぞれの文化的差異によって異なった受容のされ方をされている。世界的に広まった理由を断定することは難しい。

 本書は、2004年当時に書かれたもので、世界を席巻する「かわいい」現象について具体的に記述したものである。「かわいい」の美学的問題や、その普遍性の問題についての哲学的な洞察に欠けはするが、具体的な現象が現在どのように生起しているかについての記述は厚い。哲学的問題は私たちに与えられた宿題なのかもしれない。

御厨貴『オーラル・ヒストリー』(中公新書)

 

オーラル・ヒストリー―現代史のための口述記録 (中公新書)

オーラル・ヒストリー―現代史のための口述記録 (中公新書)

 

  「公人の、専門家による、万人のための口述記録」としてのオーラルヒストリーの理論と実践について書いた本。ちなみに著者はオーラルヒストリーの第一人者である。

 政治家や官僚は自分のなした仕事について沈黙を貫くことが多かった。だが、彼らに入念なインタビューを行うことで、通史とは違った独特の歴史資料が現れる。そこに生まれるものをオーラル・ヒストリーという。オーラル・ヒストリーによって、人の歴史だけでなく組織の歴史も明らかになってきた。また、インタヴューすることで初めて明らかになる歴史の事実もたくさんある。

 実践方法としては、同意を得、質問票を用意したり、書き起こしたりと様々な手間がかかる。実際のインタビューでは相手の話を引き出す工夫が必要だったり、様々な技術が用いられる。歴史資料として通用するオーラルヒストリーを作り出すためには様々な工夫が必要である。

 歴史資料の取材の重要な方法としてのオーラルヒストリー。本書はその道のプロがその実経験に基づき、その限界(嘘やつじつま合わせなど)を了解しながらもオーラルヒストリーの有用性について語っている。ところで最近質的社会学の方法としても同じようにインタヴューの方法が取られていて、岸政彦などが著作を出している。フィールドワークにおける聞き取りと本書で論じられているオーラルヒストリーを比べてみると面白いかもしれない。

内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)

 

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

 

  かつて日本の山村では人々は事実としてキツネに騙されていた。その現象がなくなったのは1965年ごろである。その理由を探る中で日本社会の変遷を追っている本。

 人々がキツネに騙されなくなった理由として、①高度経済成長期の経済発展により人々が経済的人間になったこと、②科学技術の普及により人々が物事を科学的に見るようになったこと、③情報技術の発展により人々とキツネとの伝統的なコミュニケーションが消えたこと、④進学率が高くなり村の伝統的な教育が崩れたこと、⑤死生観の変化により土地とともにあった信仰が消えたこと、⑥自然観の変化により人間と自然が切り離されたこと、が挙げられている。

 本書は実証的なデータに基づいて書かれた社会科学の本ではないが、日本の一つの時代の変遷を丁寧に追っていて、日本の歴史に対する興味深い考察となっている。現代、この変わりゆく世相において、同じように消えていく「事実」がいろいろあるのだろう。