社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

仕事と家庭

 仕事と家庭を両立するのはいつの時代でも働く人々にとって難問である。特に、私は子どもが生まれてからそれを痛感している。子どもは現在2歳4カ月。今までとても手がかかったし、これからもまだまだ手がかかるだろう。問題はこの子供の面倒をだれが見るかである。妻は仕事を辞めて育児に専念しているが、妻にだけすべてを押し付けては妻が病んでしまう。だから私の方でも積極的に育児に関与しなければならない。妻に潰れられてしまうほど怖いことはないのである。

 実際妻はこれまで何度か潰れかけた。育児ノイローゼになったこともあるし、精神状態が悪化したことは何度かある。子どものイヤイヤ期が始まったころ、妻のストレスは限界に達し、子どもに怒鳴ったり物を投げたりするという相談を受けた。それで私は福祉センターに相談をしに行き、妻の育児負担を軽減し、その分私の育児の負担を増やすことにした。それで何とかなると思った。

 だが、今度は私の方が参ってきてしまったのである。私は仕事の方でも結構負担が大きいポストにいる。制度改正を担当していて、いろいろ業務上大変である。それで、いつも始発の電車で出勤するなどしていた。そうでもしないと仕事が間に合わなかった。ちなみに夕方は定時で帰っている。夕方になると妻が疲れてくるので、私が早く帰って育児のバトンタッチを受けなければならないからである。

 今度は私の方が体調不良になってきたので、私は朝の超勤を必要最小限にとどめることにした。ちょうど制度改正も終わりに近づいてきており、仕事もだんだん落ち着いてきたので、仕事の方の負担を少し減らそうと思ったのである。それで今、体調が徐々に回復してきているところである。

 妻の実家の応援も受けてはいるが、それにしても核家族での育児は大変である。これでは少子化が止まらないので、子どもを育てやすい社会になることを望んでいる。結局、限られた体力を仕事と家庭に適正に配分するという問題であり、それはその時々の家庭の状況や仕事の状況を見極めて柔軟に行わなければいけないということだ。

吉見俊哉『大学は何処へ』(岩波新書)

 現代日本の大学の失敗を、日本の大学の歴史にさかのぼって検証した重厚な本。戦争末期から占領期にかけて大学を再定義する際、理工系の圧倒的優位、初中教育から高等教育までの単線性が導入され、高等教育の複線性やリベラルアーツが育たなかった。また、現代においてネット化とグローバル化少子化にさらされる中で、大綱化・大学院重点化・国立大学法人化という改革も実を結ばなかった。教師と学生の協同組合としてのカレッジ、研究と教育が一致するファカルティ、アカデミック・キャピタリズムの中での知的エージェントとしてのユニバーシティの複合体として大学はあるべきだが、それが十分育たなかった。

 相変わらず吉見の本は独特のペシミズムに貫かれているが、それにしても現代の大学がなぜうまくいっていないかを、占領期にまでさかのぼり詳細に跡付けていく力量には脱帽する。現代の大学の問題をここまで掘り下げている本は少ないのではないだろうか。これだけの重厚でハイレベルな本を新書で読めるなんてありがたい。大学についてはつくづく考えさせられる本である。

村木厚子『公務員という仕事』(ちくまプリマー新書)

 厚生労働事務次官を務めた著者による公務員入門。公務員は人の役に立つ仕事をするが、利益を生まず、収支が合わない事業でも社会に必要であれば行うところが民間企業とは違う。また、社会保障制度などにおいて、みんなが「まあいいか」という程度の最大公約数的な一つの制度を、みんなに強制的に使ってもらう仕事である。世の中のニーズを敏感に感じ取って、それを制度に変換するのが公務員である。だから公務員に必要なのは感性と企画力であり、常にアンテナを高く立て、政策立案に励んでいくのが公務員である。

 本書は、国家公務員をひととおり勤め上げた著者による、実体験に基づく公務員論であり、おそらく公務員を志す人や公務員として働いている人は、下手なビジネス書よりもまずこの本を読んで勉強するとよいのではないだろうか。著者自らが携わった仕事に関する記述は活き活きとして学ぶところが多く、公務員にとっては仕事入門といったところでとても勉強になる。いい本だと思う。

渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』(ちくまプリマー新書)

 障害者についての認識を改める本。障害者というと、健常者の対義語のように用いられ、哀れで無力な存在のように思われがちである。だが、様々なケアを必要とする意味で、我々健常者であっても十分障害者的側面を持ち、健常者と障害者の間には様々なグラデーションがある。一人では生きられない、他人の支えを必要とするという意味では、我々は皆障害者である。また、障害者は確かに、ある種の崇高さを感じさせ、接するものに畏敬の念や反省の念を抱かせるものであるが、欲望にまみれたごく普通の人間でもある。

 本書は、障害者のケアに携わり、障害者についてのノンフィクションを書いた著者による、障害者についてのガイダンス的な本である。著書『こんな夜更けにバナナかよ』は映画化されてヒットした。我々は皆不完全な存在であるし、人間はそもそも社会的な動物であるが故、社会的な関係をなくしては生きられないのである。障害者の存在は人間のそういう側面を際立った形で示してくれる。面白い本だった。

超越の技法

 組織で働いているといろんなことが気になるものだ。基本的に淡々と仕事をこなしていればいいのではあるが、例えば人間関係であったり、人事であったり、組織で働く人ならではの気になることがいろいろある。場合によってはある人に悪口を言われ続けてストレスが溜まっているかもしれない。場合によっては同期よりも昇進が遅くてそれが不満かもしれない。

 もちろん、自分の進退にかかわるような重要なことについては丁寧にコミットして解決しなければならない。例えば深刻ないじめであるとか、罠にはめられて転職を余儀なくされそうになるとか、そうなってくると、自ら戦って問題を解決しなければならない。

 だが、大方はスルーするのが一番であることが多い。ちょっとした悪口とか陰口はスルーする。多少の昇進の遅れもスルーする。それよりも仕事に穏やかな気持ちで取り組むことが一番である。

 まあ、こんなことはどんなビジネス書にでも書いてあるのだが、だが、実際にこのスルーするという「超越」は何によって可能となるのか。自分の世界が組織しかなくて、とにかく社内政治が気になるし出世が気になってしょうがない、そういう人は多いのではないか。そういう人に超越しろと言っても超越の仕方がわからない。

 そこで、私が実践しているのは、組織とは別の領域にも自分の活動する領域を作ることだ。私は読書や創作を趣味としていて、そちらの領域でもそれなりに活躍している。そのように、組織を相対化するような別の領域にも自分の居場所を作るということ。これが超越のための技法である。

 仕事で多少嫌なことがあっても、出世が多少遅れても、自分には別の世界もある。そのような相対化こそが超越の技法であり、魂の健全化である。