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二重の懐疑

 震災については安易に語るべきではないと思っている。特に私のような中途半端な被災者は、語るべきではない。命を落とした人、避難を余儀なくされている人に比べて、私の被害はさほどでないから、そのような人たちにかけるべき言葉はない。重い体験には重い言葉がかけられなければならない。重い体験に軽い言葉をかけるのは、その重い体験に対する侮辱にほかならないからだ。なぜかというと、人間というものは、自分の体験の価値を正しく評価されたいと思う生き物だから。重い体験に軽い言葉をかけるということは、重い体験を軽く評価するということであり、それは重い体験をした人たちの人格を損害する。そして、軽い被害しかなかった人間は、重い被害を受けた人間の体験に釣り合うだけの重い言葉をかけることはできないのである。かといって、被害者ぶることもできない。自分よりもひどい被害を受けている人がいるにもかかわらず、大した被害もないのに自分の被害を拡大して嘆き悲しむのも、自分の体験を過大評価しすぎであり、適当でない。結局、私は震災について何事も語るべきではないという結論に達する。もちろんこれはパラドックスではある。「語るべきではない」と語ってしまっているのだから。

 それよりも、私がすべきなのは記録である。ノンフィクションである。重い体験をした人を侮辱することもなく、自分の体験を過大評価することもなく、ただ、自分の体験を着々と記録するということ。そのストイックで謙虚な記録の作業のみすべきだと思う。
 震災から10日経って、急にSyrup16gを聴きたくなった。どの音楽も、上滑りするばかりで自分の気分にフィットしなくなってきたからだ。Syrup16gの絶望が欲しくなった。ところで、Syrup16gの絶望の根拠はどこにあるのかということを考えた。それは結局、自分の言葉も制度も信じられないという、根源的な社会不信・自己不信にあるのではないか。

This is not just song for me
   (「(This is not just)Song for me」より)

 この曲は、「私に向けられた曲」であると同時に、私にとって「ちょうどいい曲(just song)」ではないのである。どういうことかというと、五十嵐は、自分に向けて曲を書いたのだが、すぐさまその曲が自分にふさわしくないということに気づいたのである。Syrup16gの絶望の核は、このようにして、ソングライターである自分というものが、ソングライターとして根源的に破綻している、そういう自覚にあるのだと思う。自分の言葉は何一つ適当でない。それでも言葉を発することしかできない

昨日より今日が
素晴らしい日なんて
わかってる そんな事
当り前の事さ
   (「Reborn」より)

 自分の言葉が信じられないとなると、他人の言葉、制度に、せめてすがろうと考えるのが人間心理である。制度は信じられるのではないか。他人の言葉は自分の言葉より真実を語っているのではないか。ところが、五十嵐が感じるのは、制度の側も信じられないという絶望である。と同時に、それでも制度にすがりたいという甘えた気持ちも持っている。だから、「昨日より今日が素晴らしい」という制度の側の言葉を肯定するふりを見せながら、そして肯定したいのは山々なのだが、思いっきりその言葉を否定している。

 さて、Syrup16gは何を頼りに生きていったらよいのだろうか。自己も他者も信じられない、自己も他者も適切なことを語っていない、その絶望の淵で、何をしていったらよいのだろう。その答えは、彼らが大量の楽曲を作ったというまさにそのことにある。信じられるとか信じられないとか、本当とか嘘とか、そういう対立軸の彼岸にあるもの。それは生きる意志であり、生きざるを得ない宿命である。声を発さざるを得ないという生理的で生物学的な事実である。Syrup16gにとって、言葉の論理的な位相はもはや重要ではなかった。ただ言葉が存在するという事実的なありようを生ぬるく見守っていくということ、それしか彼らの生きる道はなかったのだ。