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佐々木毅『宗教と権力の政治』(講談社学術文庫)

 

宗教と権力の政治―「哲学と政治」講義2 (講談社学術文庫)

宗教と権力の政治―「哲学と政治」講義2 (講談社学術文庫)

 

  西欧中世において、初めは宗教と政治が不可分だった。それは教皇至上権という形を取り、教皇宗教的にも政治的にも絶大な権力を誇った。だが次第に、宗教の領域と政治の領域が分かれていく。その過程について丁寧に説明してある本。

 中世を支配したキリスト教は、主に以下のような主張を持っていた。(1)すべての権力は神によって設けられたものである。(2)神の統治と世俗の統治は区別される。(3)キリスト教徒は人間に従うよりも神に従う。

 教皇の至上権の内容。(1)ローマ教皇は唯一、神によって樹立されたものである。(2)ローマ教皇は世俗の支配者よりもはるかに高い地位にある。(3)ローマ教皇は法の上にあり、誰の裁判権にも属さず、最高の裁判権を持っている。この背後にある考えは、人間の社会生活は宗教や信仰によって成り立っており、政治的な支配関係もそれ抜きには成り立たない、というものだ。

 トマス・アクィナスは、理性は信仰によって完成されるとして、哲学と神学の調和を目指した。人間は自然法の世界にとどまるのではなく、神法の世界に上昇していかねばならない。自然の世界より恩寵の世界の方が上である。だが、トマスは分業による社会生活の改善・知識の社会的蓄積・人間の才能の社会的活用を積極的に是認し、人間の幸福のために「完全な共同体」つまり国家が必要だとする。彼は現実の社会生活を肯定するのである。

 中世後期になると、「教会の中の国家」ではなく「国家の中の教会」という思想が生まれてくる。1303年のアナーニ事件では、教皇が世俗権力に屈服し、教会の権威がだんだん落ちてくる。教会も内部分裂など起して、教会への疑問も生まれる。やがて、教会ではなく聖書が唯一のよりどころであるという運動が生まれ、贖宥状の発行に憤慨したルターによって宗教改革が行われる。聖書の解釈や信仰の管理は個人個人が行う「万人司祭主義」の登場である。ルターは「目に見えない教会」を信じたが、カルヴァンになってくると再び「目に見える教会」の信奉へ転ずる。ルターもカルヴァンも世俗権力への絶対的服従を認めるが、ルターが世俗権力を外面的に認めたのに対し、カルヴァンは世俗権力も教会へ奉仕すべきと考える。

 マキアヴェッリになってくると、もはや政治は神とは切り離される。彼にとっては「初めに権力ありき」であって、「初めに正義ありき」「初めに法ありき」ではなくなってくる。いかに君主が権力を拡大させ軍事的に成功し共和国を樹立するか、そのための実際的で物理的な処方箋ばかりを語り始める。

 政治が人と人との間を規律するものであるとするならば、それは宗教によっても容易に代替されうる、と私は考える。宗教が種々の戒律を定めているのならば、その宗教の行政組織だけで政治はまかなわれるであろう。だが、宗教は実際の現実的な政治を規律するには余りにも物足りないし、例えば軍事学において宗教など全く役に立たない。政治と宗教のカヴァーする領域は、重なり合いながらもお互いにはみ出す部分がある。互いに独立するものであるのなら問題は生じないが、宗教と政治は重なり合う領域、つまり社会を規律するものとしての領域があり、そこでどちらが優勢に立つかが変わってくるのである。法や政治の複雑化に従って、それが宗教から独立していったのは当然の成り行きではないか。