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自己決定権の相互譲渡

 アルカイックな多くの社会においては、神々が人間を支配し、人間は神々の決定に身を任せ、さらには神々から権限を受け継いだ王の決定に身を任せていた。神々は人間にその存在そのものを贈与しているだけでなく、自然の恵みや天候などをも贈与しているのだから、人間はその返礼として神々の決定に従わなければならなかったのだ。アルカイックな社会において人間に自己決定権などそれほどなかったと言っていい。

 だが、近代以降、神の支配が弱まり自立した個人が権利を主張するようになると事態は変わってくる。人間は自由である。自由に自分のことを決定できる、そういう権利を持っているということになる。ところが、各自が自分の権利だけ主張していたのでは社会全体の繁栄はもたらされない。他人と協調し、社会を運営していく上で、どうしても個人は自らの自己決定権の一部を他人に譲渡しなければならなくなる。

 例えば卑近な例で言えば、隣同士に住んでいる人同士は、騒音を控えるだろうし、旅行に行ったらお土産を与え合うだろう。取引をしている人同士は、品物を受け取ると同時にお金を払うといった具合の双務関係に立たされる。社会で生きていく以上、自分の行為は他人に影響を及ぼすのだから、自分の行為の決定にあたって他人の意思を考慮しなければならないのは当然である。なぜなら、自分の行為の影響によって他人の自己決定権を妨げるからである。他人は自分の行為によって好きなように行動できなくなるかもしれない。だから、自分の自己決定権と他人の自己決定権の間に折り合いをつけて、お互いに自己決定権を制約し合うのだ。

 民主主義の本質とは、このような自己決定権の相互譲渡だと思われる。民主主義とは言っても、民の間での相互けん制は当然生じるわけであり、法律など自己を規律するものの決定にあたっても、自己だけで決めるわけにはいかないのだ。そこには多様な人々の利害関係がかかわっており、それらを均等に尊重したうえでの決定がなされなければならないため、個人は自己決定権を互いに譲渡する。互いに譲渡された自己決定権を吸い上げるのが立法府である。

 とはいっても、人間の自己決定権には人格的価値が強く浸み込んでいる。本来なら自己決定権は譲渡できない性質のものである。だから、個人が自己決定権を譲渡するといった場合、そこで所有権は移転しない。あくまで個人は自己決定権を所有し続ける。ただその管理のみを他の人間に委ねるだけであり、自己決定権の還付請求権はいつまでも保持されなければならない。要するに、あまりにも自己について自己の望まない決定がなされた場合、個人は自己決定権を取り戻し、それに基づいて異議を申し立てることができるのだ。民主主義における自己決定権の相互譲渡といっても、そこにおける譲渡は動産や不動産の取引的譲渡と違い、所有権を強く保持したままでの管理権のみの譲渡に過ぎないのである。