社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』(岩波新書)

 

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

 

  日本近代について論じた重厚な本。

 ウォルター・バジョットによれば、近代とは「貿易」と「植民地化」により慣習の支配を変革して「議論による統治」を生み出した時代である。

 日本の政党政治幕藩体制時代の権力均衡メカニズムに由来する。日本の資本主義は明治時代の殖産興業政策に由来する。日本の植民地帝国は日露戦争戦勝後国際社会で一等国扱いされ軍事的安全保障を企図したことに由来する。さらに、三谷は日本の近代の特徴の一つとして天皇制を挙げ、それが日本にとって宗教と同じ国の枢軸としての役割を担ったことを述べる。

 本書は日本の近代について緻密で重厚な議論を積み重ねた学術書レベルの本である。近代の定義から始まり、それを日本の特殊性に柔軟に当てはめていく様は見事である。近代については多くの本が書かれているが、バジョットの議論はあまり取り上げられることがなかったように思うので新鮮だった。

藤田正勝『日本文化をよむ』(岩波新書)

 

日本文化をよむ 5つのキーワード (岩波新書)

日本文化をよむ 5つのキーワード (岩波新書)

 

  「無常」をテーマとして日本文化を論じた本。

 出家の道と詩歌の道との相克で悩んだ西行。人間の悪を直視し、悪人であるからこそ救われるとした親鸞。世の名誉などはすべてむなしいから遁世しようとした鴨長明吉田兼好。能を極めながら「花」という美学を展開した世阿弥。わび・さびを追求した芭蕉

 これらの日本文化を代表する人たちは、この世は儚くすべては移ろいゆくという無常観を共有していた。日本文化には通奏低音としてこの無常感が流れている。西田幾多郎はこういった各国特有の文化を世界に開いていき、世界文化を活気づけることを企図していた。

 本書は日本文化の形成に当たって重要な役割を果たした人たちの思想を取り上げ、それらを概観したもので、それぞれの思想家の入門書的役割を果たしている。日本文化においてはやはり無常観というものが重きをなしているようで、たとえば自分自身のものの考え方にもそれは影を落としているように感じる。なかなかおもしろかった。

ユーモアについて

 エッセイをたくさん読んでいると、ユーモアにもさまざまな種類があるということが分かってくる。ここではユーモアを防衛機制的ユーモア、創作的ユーモア、潜在的ユーモアに分類し、それぞれ解説していこう。
 防衛機制的ユーモアは、人生の悲惨さを面白おかしく笑い飛ばす類のユーモアである。さくらももこのエッセイに顕著である。悲惨な出来事に自らが傷つく前にそれを笑いに変えて傷つかないようにする。あるいは悲惨な出来事に傷ついた自分を癒すために出来事を笑い話にする。
 創作的ユーモアは、事実でなくてもよいから積極的に面白い話を作り出そうとするユーモアである。穂村弘のエッセイに見られるし、お笑いのネタなどもこの類のユーモアである。これはレトリックや技巧としての笑いであり、発話を装飾する笑いである。一部の現代詩などにもみられ、奇妙なユーモアを独創的に作り出すことでテクストの魅力を増そうとする。
 潜在的ユーモアは、日常生活に潜むちょっとしたおかしさを拾い上げてくるユーモアである。日常生活にはユーモアが潜在しており、それを改めて日の下にさらす類のユーモアである。川上弘美などのエッセイに見られる。このユーモアは割と語り手の感受性に依存する。語り手が日常生活の面白い部分にどれだけ鋭敏に反応しているかが潜在的ユーモアの発現には影響する。
 ユーモアを便宜上3つのタイプに分けてみたが、もちろん相互に重複することはよくある。悲惨な出来事は日常に潜在するおかしな出来事だったりする。ユーモアを創作するときには、悲惨な出来事だったり日常生活に潜んでいそうだったりするユーモアを創作することもある。そもそもユーモアはすべて何らかの意味で防衛機制であろう。
 エッセイにユーモアが多いのは、いちばんは防衛機制によるものだと思う。書き手は自らの体験を語るのに、ユーモラスに語ろうとする。それは自らを愛すべき対象として構築すると同時に、自らの経験から毒を抜こうとする営みであり、人生を愛するための手段である。ひっきょう、ユーモアとは人生を愛するための手段かもしれない。

菊地章太『エクスタシーの神学』(ちくま新書)

 

  キリスト教神秘主義で、特に神との合一によるエクスタシーに至った女性の列伝。

 エクスタシーとは「外に立つ」という意味で、自分を捨て去って自分の外にある途方もなく大きなものと合一する究極の達成である。それは究極の愛であり、女性の場合は神との結婚という形をとったりもする。

 このエクスタシーは受動的な経験で、愛するのは神の方である。また、神もまた「外に立つ」。人の知ることのできない神秘の世界から神自らが抜け出してこの世に下ってくる。それはイエスという肉体に神が受肉することや、教会のミサにおいてパンと葡萄酒の中に神が姿を現すことに端的に現れている。

 エクスタシーは精神的な抑鬱病の妄想としてジャネによって研究もされている。エクスタシーに至る患者はだいたい似たような経過をたどることが分かっている。

 本書は、フランシスコ・ザビエルやその他聖女として列されている人々のエクスタシーの経験について紹介している本である。キリスト教神秘主義が極まるのが、このように神秘的体験が実際に経験される地平においてであろう。エクスタシーは神の神秘を確証する役目を果たし、昔からその経験は伝えられてきた。現代では精神病の症例としても解釈されているが、神秘主義はそれすらも超えていきそうだ。

吉見俊哉『親米と反米』(岩波新書)

 

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

 

  文化的側面からの日米関係史。

 近代日本における親米と反米は、何層にも及ぶ屈折の中で形成された。

 幕末維新期、アメリカは自由の聖地として理想化され日本の知識人たちは親米的であった。

 二十世紀初頭、大正デモクラシーは再び自由の国としてのアメリカをクローズアップし、映画やジャズなどが流入する中で知識人のアメリカ批判と大衆のアメリカ好みが並立した。

 占領期から1950年代にかけて、親米と反米の対立は先鋭化した。占領期の大衆はアメリカの豊かな生活にあこがれる一方、基地という暴力に対抗するナショナリズムも形成された。

 1950年代以降、暴力としてのアメリカは後景化し、人間天皇や皇室ご一家への注目、技術者や主婦への注目により消費社会型アメリカニズム=ナショナリズムが確立する。

 70年代以降、アメリカはもはや他者ではなく、日本はアメリカを取り込んでいった。

 本書は親米と反米という観点から日本とアメリカの関係を文化史的に考察した新書としては重厚な本である。日本というものが占領期やベトナム戦争時の反米運動にもかかわらずアメリカと同一化し、もはや日本とアメリカを区別することは難しく、今となっては親米・反米とは違った次元に日米関係は至っているようだ。アメリカは現代日本を語るうえでは避けて通ることのできないものとなっている。