社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

伊東光晴『ガルブレイス』(岩波新書)

 

  ガルブレイスプラグマティズムに依拠して現代資本主義を分析し続けた経済学者である。

(1)市場を調整するメカニズムは競争と拮抗力である。市場は競争だけで決まるものではなく、労働者や消費者からの圧力によっても決定する。

(2)経済二分法。大規模法人企業と小規模個人企業では成立する経済原理が違う。大企業では、経営の支配権はテクノストラクチュア(経営者の下の各種組織の専門知識を持つ集団)に握られている。だから、経営トップは能力以上の高額な所得を得て腐敗する。

(3)ゆたかな社会では、必需度の高いものの消費が減り、必需度の低いものの消費が増える。それをあおるのが広告である。またゆたかな社会では公共サービス資金が回らない。政府の政策には企業や労働者が参加してコスト上昇による物価上昇という悪循環を断ち切るべきである。

(4)農業、個人企業、サービス業へのまなざし。これらの分野の経済状態の悪化を防ぐためには、自己搾取(度の過ぎた自己努力)をなくさねばならない。最低賃金制の導入、数量制限、教育の地域間格差の解消などが望ましい。

 ガルブレイスの経済学は、普段我々が接しているケインズまでの経済学の先へと向かうものである。我々はガルブレイスを学ぶことによって、より現代的な経済問題を把握することができ、現代の経済を考えるきっかけをつかむことができる。このように、絶えず現実を把握することをやめなかった経済学者の足跡は貴重である。

横手慎二『スターリン』(中公新書)

 

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

スターリン - 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

 

  ソ連崩壊後明らかになった新しい資料を基に描かれたスターリンの肖像。生い立ちから運動化時代、権力の座に上り詰めるまでの軌跡が描かれる。スターリンの伝記については、ソ連情報統制や資本主義国の偏見によって過分に歪められていたが、あくまで中立な記述を目指している。

 スターリンの死後、彼の評価については擁護派と糾弾派に分かれている。彼の工業化推進を評価する立場と、集団的弾圧や粛清を糾弾する立場である。フルシチョフは明確にスターリンを批判したが、ゴルバチョフは折衷的な態度をとった。

 スターリンは、確かに晩年は老齢によって拙い政治を行ったが、独裁者として君臨するにあたって、様々な策謀をめぐらした。スターリンの直面した問題は、戦争も含むあまりにも複雑な問題で、それに対してスターリンは一貫した理論的態度を持たなかった。政治というのは、為政者が、置かれた状況を総合的に臨機応変に判断して行うものなので、その当否の判断は難しい。だが、現代の価値観からすれば彼の民衆弾圧は重大な人権侵害であることに間違いはない。

坂井榮八郎『ドイツ史10講』(岩波新書)

 

ドイツ史10講 (岩波新書)

ドイツ史10講 (岩波新書)

 

  ドイツ史の森の入り口に立たせてくれる本。基本的に簡潔を旨として、重要でややこしい事件についてはあえて踏み込まなかったりもする。全ヨーロッパに共通する部分とドイツ固有の部分があるが、全ヨーロッパ的な出来事についてもドイツ特有の事情が語られる。一つの叙事詩のようにドラマの起伏があり、大変楽しめた。これをもとに、より詳しくドイツ史の各論を読んでいこうと思う。

事なかれ主義について

 よく、「役所は事なかれ主義で…」などと言われる。実際、役所に限らず、組織というものは自浄作用があり、多少の不祥事をいちいち表沙汰にはしない。事を表沙汰にしてその対応に追われ社会的信用を失うコストに比べれば、内部においてしっかり紛争解決や再発防止措置が図られるのであるならば、事を表沙汰にせず内部的に処理した方が賢明とも思われる。組織においては部分社会の法理が働くはずだから、たとえ法に反する事件があったとしても、それに対する適切な対応が行われればことさらそこに司法が介入する必要はない。それは傷口を無駄に広げるだけである。

 問題は、法に反するような事件がありながら、組織の側で適切な紛争解決や再発防止措置が取られないような場合である。組織はそのような場合、疑似的に司法の役割を果たすわけであるが、その司法的作用がうまく働かないまま事実が単に隠蔽されるというケースが存在する。隠蔽で済むならまだよいが、事実は歪曲されたりねつ造されたりもする。事件によって人権侵害が生じた場合、この事実の操作による二次的な人権侵害が生じる恐れもあるのだ。

 事なかれ主義がぎりぎり許容されるのは、組織が手続的にも実体的にもきちんとした司法作用を営み、それ以上の秩序維持措置が必要ない場合である。ところが、組織において違法事実についてのきちんとした手続がとられず、あるいは違法事実への対応の内容が不適切であった場合、部分社会の法理の適用の前提を欠く事態となる。例えば職場で暴力沙汰があったとすれば、加害者への適正な処分、被害者への謝罪など適正な配慮が必要なわけであって、それが満たされなければ組織は準司法作用を果たしていないことになる。その場合はもはや事なかれ主義は通用しない。だから、事なかれ主義によって効率的な組織運営をしたいのであれば、有事の際の内部的な対応マニュアルを手続的にも実体的にもきちんと整備すべきである。それがなされない以上、事なかれ主義は許容されないであろう。

長谷川宏『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)

丸山眞男の仕事を平明にまとめている本。主に、知的エリートと庶民との分離という観点、また近代的主体への希求という観点から全体像がまとめられている。丸山は自分たちエリートと庶民との間に距離を持ち続けた。また、丸山は自由で自立した近代的主体が日本に成立することを望んでいた。
第二次世界大戦へと突き進んだ日本の超国家主義的国家像において、天皇は精神的価値と政治的価値の両方を一元的に握っていた。だからその臣民たる国民に主体性が芽生えなかった。国民は精神的にも政治的にも天皇に従属しなければならなかったのだ。無規定的で自由な主体としての個人の登場が必要なのである。
日本の近代化の方針は福沢諭吉が示してくれている。福沢の反儒教主義は重要である。儒教の核心をなすのは社会秩序・規範・倫理であるが、福沢は自然・法則・物理へと向かったのだ。社会秩序に従属的である態度から、社会秩序に対抗する主体の精神の創出を目指した。
本書は丸山の思想を平明に解説してくれているが、少し違和感を感じた。というのも、丸山の文体というものは決して平明ではなく起伏に富んだものだからだ。これでは丸山の思考のデリケートさがあまり伝わって来ない。だが、読者はここから丸山の原典に当たるきっかけが与えられる。丸山の俊敏で機微に満ちた思考を味わうためにも、ぜひ丸山の原典に当たる必要がある。