社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書)

 

  プロテスタンティズムの勃興から現代への影響までを丁寧に追った本。

 ルターは「聖書のみ」「万人司祭主義」「信仰のみ」という宗教改革三原則を掲げて、ドイツ語版聖書を刊行し、印刷術で流布させ、宗教の改革を唱えた。それは純粋な宗教上の申し立てであったが、反教皇主義として領邦君主たちに政治的に利用され、宗教改革は政治的な争いとなった。

 ルターの興したプロテスタンティズムはその後体制化し、そこから新たに逸脱していく新プロテスタンティズムが現れる。ルター派は国家や伝統と結びつき保守化するが、清教徒などの新プロテスタンティズムは絶えざる自由を求めてリベラルの源流となる。特にアメリカではリベラルが活発であり、アメリカのグランドデザインとなった。

 この本は単なる宗教改革の本ではなく、むしろ宗教改革のその後を見通している点で優れている。ルター派からさらに逸脱していく多様なプロテスタンティズム。そしてそれがリベラルの源流となるという歴史の展望。宗教改革は一過性のものではなく、その後の歴史に多大な影響を与えたのだということがよくわかる。

家永三郎『数奇なる思想家の生涯』(岩波新書)

 

  明治の時代に先鋭的な思想を掲げながら、その筆鉾の鋭さゆえ著作が発禁となり、歴史に埋没しかけた田岡嶺雲の人と思想。

 田岡は、のちのプロレタリア文学の隆盛に先駆けて社会文学を提唱した。当時の労働状況は過酷であったため、その現状を訴える必要があると考えたのだ。

 また、「非文明」を唱え、現代の文明はあまりに唯物的・実験的・帰納的・科学的であり、自然に遠ざかり本然にもとり、主観を卑しめ理想を卑しむものであり、唯心主義や神秘主義を唱えた。「文明」を克服するためには革命が必要であり、そこに「社会主義」が成立する。私有権を憎み共産の思想を尊ぶが、田岡の思想には実践性が欠けていた。また田岡は資本主義に基づく婚姻制度に反対であって、自由恋愛を唱えてもいる。

 田岡嶺雲は確かに現在でも著作の入手が比較的困難な思想家である。初めは文芸批評から出発しているが、広く社会一般を評論した射程の広い論客である。ただし、実際の社会運動には参加しなかったため、その理論は飽くまで理想的であり、実践性に欠けるうらみがある。だが、時代に先駆けてこのような主張がなされたということは非常に興味深いものがある。 

森岡孝二『働きすぎの時代』(岩波新書)

 

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

 

  世界的に労働時間が増加していることに警鐘を鳴らした本。

 現代社会において、日本だけでなくアメリカやイギリス、ドイツなど世界的に働き過ぎが増えていて、健康障害が生じたり、近所づきあいや政治参加が困難になったり、家事や育児に時間が割けなくなっている。

 その背景として、①情報資本主義(パソコンの発達により情報量が増加したり、スマホの発達によりいつでもどこでも連絡が来たりするようになった。)、②消費資本主義(浪費が多くなり、その分長く働く必要が出てきた)、③フリーター資本主義(正規労働と非正規労働で労働時間が二極分化した)など社会的要因が挙げられる。

 一方で、働き過ぎを止める動きも始まっている。オランダではパート職員と正規職員の時給を等しくすることで労働時間をかなり削減できた。また、人々も減速生活者(ダウンシフター、スローライフ)などのライフスタイルの変化により、低い年収でも満足した生活を送るようになってきている。

 本書は現代の働き過ぎの問題について、その現状と背景、対策について簡潔にまとめている。特に日本はいまだに働き過ぎの状態にあるので、本書にあるように、残業時間の削減や有給休暇の完全取得などを目指し、過労死や健康障害を防ぐべきである。当たり前のことだが、仕事より生活の方が大事である。

平木典子『アサーション入門』(講談社現代新書)

 

アサーション入門――自分も相手も大切にする自己表現法 (講談社現代新書)

アサーション入門――自分も相手も大切にする自己表現法 (講談社現代新書)

 

  人間関係を良好にするアサーションについての入門書。

 自己表現には三種類ある。

①非主張的自己表現:自分はNG、相手はOKとして自分の気持ちを伝えないタイプ。

②攻撃的自己表現:自分はOK、相手はNGとして自分の気持ちを相手に押し付けるタイプ。

③アサーティブな自己表現:自分もOK、相手もOKとしながら、相手を尊重しつつ自分の気持ちも主張するタイプ。

 アサーティブな自己表現は、相手を攻撃することも自分を抑え込むこともなく、互いの人権を尊重した対等なコミュニケーションを築ける点で優れている。人は誰でも自分らしくあってよい。

 アサーションには、仕事で求められるタスクのためのアサーション、人間関係で求められるメンテナンスのためのアサーションがある。仕事を達成するためのアサーションと、日々の人間関係を良好にするためのアサーションの双方を補完的に用いる必要がある。

 本書は最近よく言われるようになったアサーションについての大変分かりやすい入門書である。人間関係が悪化する場合、双方または片方がこのアサーションを実行できていないことが多い。威圧的な上司に萎縮する部下、抑圧的な父親に反抗的な子供。そういう問題を解決し、人生を良好で円滑にする優れたスキルについての本であり、ぜひ実践したいし多くの人に薦めたい。

夢を見ていた

 今の会社組織に入ってもう5年になる。私は大学院で法律を修めたコンプライアンス世代であり、現実社会に出てみると法的にアウトなことが割と普通に行われていることを知った。暴行や脅迫、名誉毀損、ハラスメント、そういった行為が現実社会では割とカジュアルに存在する。さすがの私もいちいち目くじらは立てなかったが、自分が重度の被害者になったときにはさすがに声を上げた。だが、声を上げれば角が立つばかりであり、現実はほとんど変わらなかった。私の事例はその種の事例のただの一事例としてしか取り扱われなかった。私は現実を変えることができなかったのである。
 だが、見方を変えると、そもそも組織というものはそういう構造を備えているのだということが分かる。体制を変える権限があるのは上層部の人間だけだ。私のような下層の人間は担当する職務をこなす権限しか割り当てられていない。そのような下層の人間が体制を変えろと言ったところでそもそも権限がない。ただそのような声が下から上がって来たという一事例として上層部は認識するだけである。そして、たかだかそのような一事例のみによって体制がドラスティックに変わるわけがないのだ。組織には多様なアクターがおり、複雑な力関係が形成されているわけであるから、その力関係の渦の中に巻き込まれて、私の小さな声などかき消されてしまう。
 私は夢を見ていた。おかしいことをおかしいと言えば現実は変わるという夢を見ていた。だが、組織の構造はそのように出来上がっていない。友人間の問題や家族間の問題なら容易に現実は変わるかもしれない。だが、多様なアクターが複雑に影響力を行使している組織というものの中で、権限のない者がいくら声を上げても一つの事例としてしか取り扱われないのである。それは初めから現実を変える力を持たない。
 私は思った。自分の主張をすればするだけ立場が悪くなる。今は雌伏のときである。じっと耐えて、仕事をとにかく淡々とこなし、いつか権限を手に入れたら少しずつ体制を変化させるのだ。今は我慢のときなのだ、と。