社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

藤田・宮野『家族』(ナカニシヤ出版)

 

家族 (愛・性・家族の哲学 第3巻)

家族 (愛・性・家族の哲学 第3巻)

 

  家族について法学・社会学・哲学の観点からアプローチした論文集。

①結婚にまつわる契約・所有・個人概念の再検討をした藤田論文。

②日本の結婚における男女不平等性を考察した相原論文。

③DV防止法に基づき「法は家庭に入らず」の原則を考察した吉岡論文。

④生殖補助医療において生じる親子関係の法的問題を考察した梅澤論文。

⑤家族の共同体としての側面について論じた久保田論文。

⑥家族を哲学的に考察した奥田論文。

 本書は家庭というものを様々な角度から論じている。家庭にまつわる契約などの形而上学的問題から、日本社会の家庭の構造、家族法や刑法の家庭に関する事項、などなどである。こういう機会でもないと家庭という自明なものについて考える機会がなかなか訪れないので、本書を読んだのはとても貴重だった。ここを起点に家庭というものについて考えを深めていきたい。

能動性格差

 現代は多様性の時代だといわれる。多様性は社会福祉の観点と個人の人権の観点から説明できる。旧来の同質的な社会においては、同質でない人々を排除するという暴力が働いていた。そのような社会的排除を受ける人を少なくするという福祉の観点から、多様な人々を社会に包摂しようという動きになった。一方、個を尊重する戦後教育により多様な個性を肯定するようになり、結果として多様な個性を温存したままの若者が急増した。
 このような多様性の時代というものは、別の角度から見ると人々がバラバラになってしまった時代にも見える。それまで同質性の中で共感しあってなあなあで生きてきた日本人が、それぞれの個性で反発し合い、共感し合う土台を失っているかのようにも思える。
 だが、かつての同質性というものは受動的な同質性であった。それは上の世代からしつけられたり押し付けられたりした価値観による同質性であったのだ。現代ではむしろ能動的な同質性が育ちつつあると思われる。つまり、多様な趣味や傾向を持った人々が情報メディアでつながり合い、自らの意思で交流を深めていくという同質性である。
 ここで言う能動性とは社交性などとは違った意味合いである。全く社交的でない人でも今はウェブ上で積極的に仲間を作ることができる。現代の能動性とは自らの持っている資本のようなものであり、引き出しの多さのようなものである。引き出しの多い人間ほど多くの人と話を合わせることができ、より多くの社会関係資本を獲得することができるのだ。
 だが、だれもが能動性を備えているわけではない。昔ながらの受動的なつながり、均質的なつながりを好む人も多いだろう。また、均質的なつながりを嫌いながらも、能動的なつながりを作るリテラシーが備わっていない人も多いはずだ。引き出しの少ない人はそもそも人と対話するきっかけをつかめない。
 これからの多様性の時代に必要となる能動性を育てるため、教育も社会関係資本の形成へ力点を置き、より豊かな社会関係を構築し満たされた生活を送れるようにするべきである。

森岡孝二『就職とは何か』(岩波新書)

 

就職とは何か――〈まともな働き方〉の条件 (岩波新書)

就職とは何か――〈まともな働き方〉の条件 (岩波新書)

 

  2011年当時の就職をめぐる状況を教科書的にまとめた本。

 大学生は早い段階から就職活動を行わなければならず、そこでは就活鬱などの問題が存在し、就職先も非正規雇用が増え、サービス残業長時間労働などの問題が存在し、安定雇用の神話も崩壊した。総じて若者にとって就職は厳しい状況を生み出している。

 まともな労働時間とまともな雇用、まともな賃金とまともな社会保障を実現するため、正規社員と非正規社員との間でワークシェアリングするのが望ましい。正規社員がサービス残業している時間を非正規社員に割り当てることで、正規社員の労働時間短縮、非正規社員の待遇向上が図られる。

 本書出版から時を経て、現在では就活も後ろ倒しになり、パワハラ防止法の制定、年休取得義務化、超勤縮減など労働をめぐる状況は少しずつ改善されている。著者を含め多くの識者の問題意識や提言を受けての改善だと思われる。このようにして少しずつ社会がより良い方向へと向かっていけばいい。

廣瀬陽子『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)

 

ロシアと中国 反米の戦略 (ちくま新書)

ロシアと中国 反米の戦略 (ちくま新書)

 

  現代におけるロシアと中国との関係を詳説した本。

 中露関係は「離婚なき便宜的結婚」と呼ばれている。中露は、反米、多極的世界の維持、という点において共通の利害関係を有している。また、軍事やエネルギーなどの経済的実利においても協力関係にある。

 他方、両国が主導したい影響圏(旧ソ連、東欧、北極圏)において、中露は地政学的戦略が重なっており、対立している。中露の「蜜月」は、利害が一致する部分と相反する部分のジレンマを抱えたものなのである。

 本書は、中国とロシアとの現代国際関係史であり、そのような中国とロシアと関わっている日本の立ち位置についても論じている興味深い本である。最近アメリカや中国についての言説は多いが、ここまでロシアについて詳細に語っている新書にはなかなかお目にかからなかった。現代ロシア、現代中国について知りたくなった。

政治と文学

 政治と文学については多くの議論がなされてきた。有名なものでは第二次世界大戦後に交わされた「政治と文学論争」があり、文学の政治への機械的従属VS文学の政治からの自立・作家の主体性獲得、という論争がなされた。私としては政治と文学のどちらかがどちらかを支配するというより、作家が主体的に文学を制作しはするけれど、そこには必ず何らかの政治的なモメントが含まれている、と考えている。政治と文学は不即不離なのである。
 文学は多くの場合、作家の実存に食い込んできたものを表現する。いわば作家はみずからの実存に食い込んできたものの衝撃に耐えきれず作品を書いてしまうのだ。実存への嵌入ということが文学作品の成立の動機となることは多いはずだ。ところで現代社会において、これだけ人々が文化や制度にまみれて生きていると、作家の実存に食い込んでくるものはたいてい何らかの社会性を帯びている。それはその時代の人間関係であったり、その時代の科学技術の所産であったり、その時代の社会的制度だったりする。例えば就活に失敗した主人公を描く場合、そこでは現代の雇用制度が深く実存に食い込んでいるだろう。また、例えばウェブ掲示板への書き込みをする主人公を描く場合、現代の情報社会が実存に食い込んでいるはずだ。
 現代社会において、人間はもはや社会的なものにすっかり包囲されてしまっていて、社会的なものは人間の実存に食い込んで離れようとしない。そのような実存から主体的に発される文学は必ず政治的色彩を帯びているのである。かといって、政治が実存を支配しているわけではなく、あくまで実存は現代的な主体性や自律性を獲得しながら、自らの表現方法を模索しつつ、それでもその表現には政治的なモメントが入らざるを得ない。これが現代の政治と文学の在り方だと思う。