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道具的理性

 ホルクハイマーは、近代において理性が「道具化」されたと批判したらしい。理性が、自然を技術的に支配し、社会の合理化を推し進めるための道具に成り下がってしまった、というのである。それによって、教養や人間性が失われてしまったことを批判しているのであろう。これは、法律学を勉強する者たちにとっても耳の痛い話ではないだろうか。法システムというものが社会を合理的に運営し、紛争の合理的解決を導くためのものであるならば、その理論的基礎をなす法律学もまた、社会の合理性を推進するための道具に成り下がっているといえるからである。

 ガダマーによると、近代科学によって、(1)教養、(2)共同的感覚、(3)判断力、(4)趣味が無視されたとのことである。教養とは他在における自己還帰による精神の成熟に向かう運動である。共同的感覚とは共同体や社会への愛である。判断力とは個別と普遍とを媒介する働き、例えば、法律を具体的ケースに適用する働きである。趣味とは全体的なものとの関係で個別のものをバランスよく扱う能力である。

 だが、法曹はおそらくこれらの4契機を、法システム内部においてではあるが、備えているように思う。個別のケースに当たっていくことで、常々新しい経験を積みそのことによって精神が発展していく。また、困っている人を助け社会に貢献しようという意識を持っている。さらに法律の具体的ケースへの適用を行っている。そして、対立当事者の主張のどちらが正しいかのバランス意識も持っている。

 つまり、法曹は、確かに理性が道具化されているかもしれないが、かといって人間性を失っているわけではない。それは、法律学が、自然科学と人文主義の中間に位置し、合理性を志向しながらなおも社会の中で人間的な働きを志向しているからだと思う。