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パーソン論

 胎児が「人」となる時期について、民法は全部露出説、刑法は一部露出説をとっている。「人」となれば、法文上「人」に与えられている利益が享受できるのだ。さらには、堕胎罪の保護法益は第一次的には胎児の生命である。刑法は胎児の生命まで保護しているのである。

 ところでオーストラリアの哲学者マイケル・トゥーリーは、意識の働きと思考能力を持たなければ人格(person)としての資格を持たないと主張する。自己意識と欲求を持たなければ、その存在は生存する重大な権利を持たない。それはせいぜいhumanであって、権利を享受することができるpersonではない。

 トゥーリーの立場を日本の法制度がとっていないことは明らかである。トゥーリーからすれば、嬰児を殺しても何ら問題はない。自己意識や欲求を持たず、personではないからである。だが、既にみたとおり、日本法は胎児すら保護しているのである。

 このように、何が「人」であるかについてすら、議論が分かれている。だが、この問題は一概に、人間と動物との生物学的な区別に基づき、人間の特殊性が自己意識にあるから、自己意識がある人間だけ人格として保護する、という哲学的な発想で結論付けてよいものではない。正義とは、論理的で体系的で利益調整的なものである。どの範囲まで「人」として認めれば、個人の尊厳原理に抵触せず、社会全体の利益も増し、そして理論的整合性を保てるか、法律学的には、そういう観点から緻密に議論しなければならない。法律学と哲学では、思考方法が若干異なるのである。