1968年のパリの五月革命と「プラハの春」は、それぞれ資本主義と社会主義という二つのシステムの死を宣告するものであった。それと同時に文学や芸術への批判運動も高まり、ハイデガーやベンヤミン、ホワイトヘッドらの近代批判がまとまりをもって受け入れられると同時に、芸術におけるアヴァンギャルディズムが解体された。近代システムの代表である資本主義と社会主義は同根であることが意識され、主体を原理・根拠とする思想の限界が意識され始めた。またエコロジー思想によるテクノロジー批判も重要である。また、国家権力批判はマルクス主義の常套であったが、68年以降は日常的市民社会まで張り巡らされているフーコー的意味での権力への批判が浸透していく。また、排除と差別の問題が全面的に問題視されたのも68年ごろであった。デリダによる男根中心主義批判、フェミニズムの台頭などもこの時期である。資本主義も社会主義も、経済合理性や技術合理性、生産性の思想において同根であり、近代は結局一つの経済システムによって支配されていたに等しい。
近代を特徴づけるエートスは、(1)機械論的自然像、(2)生産主義的=計算的理性、(3)進歩時間論、である。これらのエートスは常にフロンティアを求めているので、近代は非開発的である非モダンがなくなるところまで進行する。だから、全てが合理化されていく過程で起こりうる不幸や困難を先取りし、思想の課題とする必要がある。近代は、原理を作り、根拠を立て体系化していく方法的企てであり、その体系外にあるものを排除していく。そのような排除を防ぐため、正確さではなく曖昧さが必要である。
近代の時間意識は、円環時間から直線時間へ、と言う流れでとらえることができる。同じことの繰り返しか進歩していくかの違いである。円環時間は過去中心主義・伝統主義と表裏であり、直線時間は未来中心主義・知性主義と表裏である。未来へ向かっていく上で重視されるのは意志であり、変革であり、企てである。資本主義を乗り越えようとしたレーニンやスターリンも、結局は変革と企ての近代的精神をそのまま体現したにすぎなかった。
近代の自然観は機械論的であり、制作によって自然を征服するものであり、それだけではなくホッブズは人間の政治の世界まで機械的に制作しようとした。唯物論も観念論も、結局はこの世界を人間が制作し、分解したり組み立てたりするという意味で機械論に立脚していた。この機械論によって、近代経済は累積的・蓄積的に進歩していく。また、個人主義も全てを分析していく機械論の帰結である。そして、機械化された人間はインダストリーの精神に基づき自己規律・自己立法していく。
本書は、近代の精神の原理を見据え、それが進展していく中でどのような問題が生じていったかを提示している。主体的合理性の精神は排除・差別を生みだし、主人ー奴隷関係を維持させた。資本主義も社会主義もその意味で何ら変わることなく、68年以降近代に対する様々な批判が噴出している。我々の生きている時代の精神は決して自明のものではなく、「近代」という特殊なものに過ぎないという相対的な視点は必要であろう。そして近代がもはや維持し難くなった現代において、近代を生かしつつそれを乗り越える文化や思想の出現が待たれる。