社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

川島武宜『結婚』(岩波新書)

 

結婚 (1954年) (岩波新書)

結婚 (1954年) (岩波新書)

 

  結婚して幸せになる。現代の我々は普通にそんなことを考える。だが、結婚が幸福に直結することは戦前の日本では必ずしも自明ではなかった。川島武宜『結婚』(岩波新書)によると、戦前においては両性の自由な意思による結婚が認められておらず、また女性の人権が十分保障されていなかった。戦前においては仲人が結婚をあっせんしており、夫婦はその自由な意思で結婚したわけではなかった。そこでは家の格式などが考慮された。また、戦前において嫁は非常に低い位置に置かれており、長時間労働を強いられ、家計を握ることが許されず、しゅうとなどからのいじめを受けた。

 戦前に比べると、現代においては自由恋愛による結婚が当たり前のものとなり、しゅうとと共に暮らし嫁の低い位置に置かれる妻も少なくなった。女性の人権の尊重や、家に対する個人の自由、幸福の追求などの価値観の変遷によるものである。現代では戦前に比べて国民の幸福度は総じて上がったものと思われる。

 だが結婚をめぐっては昨今新たな問題が生じてきている。モラハラやDVの問題などがそうであろう。そういった問題は結婚の幸福を阻害し、夫婦の人権を損ねるものである。また、不倫の問題なども大きい。結婚の幸福は制度上保障されたが、結婚を幸福なものとするかどうかは夫婦の努力次第である。まだ幸福な結婚に恵まれていない夫婦は多くいるのである。結婚の幸福の問題は新たなステージへと移行していると考えられる。

内田健三『戦後日本の保守政治』(岩波新書)

 

  政治記者が書いた本書は、学者が書いたと思うほど整然として無駄がなく情報量が多い。戦後日本の首相の系列を中心に据えて、彼らの足跡を追っている。GHQを後ろ盾とした強気な吉田茂、大衆政治家であった鳩山一郎、安保改定を強行した岸信介、低姿勢の池田勇人沖縄返還へと至る佐藤栄作。戦後政治を彩る群像を丁寧に描きながら、保守政治の流れを克明に記している。

 いかに日本国憲法が制定されようと、日本の政治風土が急に変わったわけではない。保守系政治家の反動の動きは常々起こっていて、しかも与党が保守系なのである。この政治家たちの保守路線と大衆の革新路線が衝突したのが安保闘争だった。大衆の意識は新憲法により大きく変化していたのに、政治家たちは旧来の価値観を抱き続けたのである。もちろん保守でも傍流の石橋湛山などは違ったようだが、それは例外であった。

 戦後というものを改めて考えさせられる一冊だった。

原田曜平『さとり世代』(角川oneテーマ21)

 

  最近の若者には覇気が感じられない、スマホばかりいじってきちんとコミュニケーションをとろうとしない、などと、おじさん世代からすると最近の若者に苛立つシチュエーションは増えているのではないだろうか。実際、上の世代と現代の若者の世代では育ってきた環境が異なり、価値観も異なるため、そのような軋轢が生じるようである。だが、最近の若者の声を実際に聞く、最近の若者がなぜそうなっているのかを理解することにより、若者との折り合いがつくと思われる。

 原田曜平『さとり世代』によると、1987年以降に生まれた「さとり世代」は、不景気しか知らないので消費や行動に慎重になり、そこそこの仕事に就いて周りと同調しながら友達のような上司に恵まれワークライフバランス重視で働きたいと思っている。また、彼らはソーシャルメディアで空気を読むことに慣れきっているため、目立つような「痛い」行動はせず、またいろんな場所や商品について情報を得ていて「既視感」をもっているため、無駄な消費を控え、ソーシャルメディアでつながった人とのお金のかからない付き合いを重視している。

 だから、今どきの若者はいい車を買ってステイタスにしようとか、出世してのし上がろうとか、そういう野心に欠けているし、海外旅行に行ったりとか派手な行動を差し控えるようになっている。バブル世代から見るとそういうところが気に入らないのかもしれないが、そのような若者たちを作ったのはほかならぬ大人たちなのである。

 若者たちは、長引く不景気やソーシャルメディアの発達に高度に適応しているがために今のような価値観を持っているのであって、むしろ現代に適応できているのはおじさん世代ではなく若者たちなのだ。おじさんたちは若者たちから現代の生き方について学ばなければならない。もはや「今どきの若い者は」などと苛立っているのは時代に取り残されている証拠でしかない。

小室淑恵『プレイングマネジャー「残業ゼロ」の仕事術』(ダイヤモンド社)

プレイングマネジャー 「残業ゼロ」の仕事術

プレイングマネジャー 「残業ゼロ」の仕事術

 

  日本人は久しく働き過ぎだった。そこでは個人の健康や労働者の権利よりも企業の論理が優先される企業中心主義が支配していた。高度経済成長は企業が労働者を丸抱えすることによって実現したが、今や企業にはそこまでの力がなくなっている。労働者は主体的に自らの権利や健康を管理しなければならなくなってきているし、それと同時に企業の生産性を上げることも求められている。

 小室淑恵『プレイングマネジャー「残業ゼロ」の仕事術』(ダイヤモンド社)によると、働き方改革とは、残業ゼロを実現することによりチームの生産性を上げ、ワークとライフを共に充実させることを目的とする。かつてのように仕事に疲れてプライベートで何もできないとか、ダラダラ残業して生産性を下げるとか、そういうことをなくしていこうというのが目的である。

 そのためには、チームの「関係の質」を上げることが出発点である。チームの間に信頼関係があり、自由に発言できる「心理的安全性」を築き、コミュニケーションを活発化させることにより、生産性を上げるのである。また、重要な仕事と重要でない仕事を区別し、重要な仕事に力を注ぎ、重要でない仕事については見直しをすることによっても生産性は上がる。そのためにもチームの目的を明確化し、なんのために働いているのかをはっきりさせるのが重要である。そして、生産性の高い健全なチームは「緊急性の低い重要な業務」が多い。緊急性の高い業務に日々追われるのではなく、そういうものは優先度を上げたり担当者を増やしたりして早めに片付け、重要な業務にじっくり取り組める体制を整えることが大事である。また、この仕事はこの人にしかできないという仕事の属人化をなくし、仕事をマニュアル化することによりスキルをチームで共有し、業務分担に偏りをつくらないことが重要である。

 「過労死」を国際的な言葉としてしまったのは日本だった。日本では早くから長時間労働による健康障害が認められていたにもかかわらず、その抜本的な解決がなされず、残業することが「頑張っている」「努力している」美徳であるかのように思われている。科学的には、人間の集中力は起床時から12時間しか持たないことが証明されていて、残業は全く非効率な労働であることが証明されている。これからは「残業しない」ことが美徳であり、日本の低い労働生産性を高める望ましい行動となるだろう。今はその価値観の分岐点に来ている。

福井康貴『歴史のなかの大卒労働市場』(勁草書房)

 

歴史のなかの大卒労働市場: 就職・採用の経済社会学

歴史のなかの大卒労働市場: 就職・採用の経済社会学

 

  皆が皆リクルートスーツに身を包み、個性を出さない身だしなみをして、ひたすら自己分析を繰り返し、採用面接で希望先企業との相性を図る。現代の就活は概ねこのような形をとっているが、就活には実は様々な歴史的変遷があった。

 福井康貴『歴史のなかの大卒労働市場』によると、就活とは、応募者がシグナリング(情報を持つものが情報を持たないものに品質を伝える)を行い、企業がスクリーニング(情報を持たないものが情報を持つものから情報を引き出す)を行う社会的コミュニケーションの果てに、企業側が応募者の有能さを何らかの尺度で測って採用の可否を決定する営みである。

 この社会的コミュニケーションの中で、かつては紹介や学校成績が重視されたこともあった。また、学歴や人物が重視されたこともあったし、近年では主に応募者と企業との相性が重視されている。企業側が応募者を採用するにあたっての根拠が、「この人からの紹介なら能力があるだろう」というものから、「この成績なら能力があるだろう」「この学歴なら能力があるだろう」と移っていき、その次には、それより組織をうまく回すには人物が重要だ、果てには、結局うちの会社の社風に合っているのが一番だ、と変わってきている。

 時代と共に採用の根拠は異なっているが、就活が情報の非対称性のもと、応募者の情報を企業がいかに取得して判断の基準にするかという営みであることは変わっていない。応募者は自分の情報をシグナリングし、企業は応募者の情報をスクリーニングする。あとは時代と社風に応じた価値基準で採否を決すればよい。就活の基本的な構造はこのような形をしている。