個人の尊厳は日本国憲法の基本原理である。個人主義に基づき、全体主義を排し、個人の人格を不可侵のものとみなす。一方で、平等原理もまた憲法上の原理であり、同一条件の者には均等に機会を与えるというものである。これら二つの原理は、日本の最高法規である憲法で保障されているので、人々は、自分はその恩恵に浴していると信じがちである。
だが、現実社会において個人の尊厳をどこまで主張することができるだろうか。まず我々は家族の中に生まれ、家族を尊重し、ときには家族の犠牲になりながら生きていかなければならない。家族というミニマルな共同体の要請によって、個人の尊厳は後退を余儀なくされることがあるのだ。さらに、就職して社会人になると、今度は組織の目標達成が重視され、個人の尊厳も組織の効率性の前には後退を余儀なくされる。世の中を生きていく上で、個人の尊厳はだいぶ後退しているわけであり、その現実を見誤ってはいけない。
また、現実社会において平等原理もそこまで貫徹されてはいない。同一条件、例えば等しく優れた学問の素質があったとしても、均等に機会が与えられているとは限らない。確かに奨学金制度は平等原理に寄り添っているが、その奨学金制度があっても、貧しい学生は基本的に大学院進学をあきらめざるを得ないのが現状だ。
だから、現実問題として、個人の尊厳は後退しているし、平等原理もそこまでは有効に機能していない。にもかかわらず我々は、自分には尊厳があると信じているし、自分は他人に対して平等だと信じている。ここになにがしかの危険はないだろうか。つまり、憲法は個人の尊厳や平等原理を理想として掲げていて、実際に保障しようとするが、現実的にそれを完全に保障することはできていない。しかし、それが憲法に書かれているというだけの理由で、我々はあたかもそれが完全に保障されているかのような錯覚に陥る。現実は個人の尊厳も平等原理も後退しているにもかかわらず、憲法の規定があることによって、我々はその現実の厳しさを見誤っていないだろうか。
権利というものは不断に主張していなければその存在すら危うくなってしまう。個人の尊厳も平等原則も、ただそれらが与えられているというフィクションに浸るのではなく、現実にしっかり保障されているか、保障されていないのなら自ら主張しなければならないのではないか、そのような意識でもって取り扱わなければなるまい。