社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

主体なき政治

 政治というものは様々な意味合いがあるが、基本的に支配権をめぐる争いだと考えておく。それは価値観を巡るイデオロギー闘争でもありうるし、文学作品の解釈をめぐる解釈論争でもありうるし、美術界における権威を巡る争いでもありうる。つまり、政治や経済の領域だけでなく、思想や文化の領域においても政治の問題は顕著に表れているわけであり、単に政策を決定するだけが政治ではない。

 ところで、政治というものはそのような争いであるから、暗黙の裡に「争う主体」を措定していないだろうか。例えば主権国家システムにおいては、対外的に独立な主権こそが争う主体であった。近代国家間の戦争は、主権間の政治的闘争であり、そこでは国家が闘争の主体となっていたのだ。

 だが、日常に張り巡らされている無数の力の働き、それこそ末端においては、家庭における主導権争いや職場での上司の機嫌取り争いすらも含むのであるが、そういうところで果たして個人や共同体はそれほど独立した主体として機能しているだろうか。特に個人は社会の中で地位を付与されて、格別社会に対してきちんとした意見も持たずに社会の駒として日々動いている。そのような個人に独立した主体性など期待できるわけもない。

 個人という主体の視点は、フーコーの言を俟つまでもなく、系譜学的に歴史的に形成されているだろうし、もっと個別的に個人史に基づいて形成されているだろう。さらには、これまたフーコーの言を俟つまでもなく、個人はそれとは意識しない形で内面化された権力により支配されていて、もはやその権力の言いなりになっている度合いが高い。もちろん、個人の主体性を完全に否定するわけではないか、個人の自我を形成している歴史や見えざる権力の割合は非常に高いので、個人が政治の主体として独立しているようには見えないのだ。

 とすると、日常に張り巡らされている力の争い、つまり政治においては、主体が存在しないまま、主体とは名ばかりの傀儡的な個人がそれを動かしているようにしか思えない。かといって、この個人たちを操っている大きな主体も見えない。国家は個人のイデオロギーを規律するほどの力はないし、共同体にも個人の自我を形成するだけの力はない。むしろ、主体というより、権力や歴史のネットワーク、権力や歴史によって織り上げられた非主体的なテクストが、個人の自我を形成し、非主体的主体として個人を政治の舞台で演技させているのではないか。

 国家同士の争いにおいて、近代主権国家は比較的独立し明確な主体性を持っていたと思われるが、もっと日常的で下位の微細な政治の舞台においては、政治の主体は特に存在せず、ただ不可視の権力や歴史的規定によって織りなされた非主体的ネットワークが政治を動かしているようにしか思えない。