社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

黒人やユダヤ人について学ぶ理由

 私は最近、黒人やユダヤ人に関する書物を多く読んでいる。黒人もユダヤ人も、ともに世界史において迫害を受けた人種である。彼らには彼らの受難があり、迫害と闘い、地位を向上させてきた歴史がある。彼らの受難がどういう構造を持ち、そして彼らの戦いがどのように行われたか、私はそこに興味がある。
 というのも、私は福島県民であり、今回の原発事故によって被害を受けた人間であるからだ。単なる被災者というだけでなく、実際被災からの復興の仕事をしているので、福島県民の現状について当事者意識を持っている。すると、福島県民の受難とはどのような構造を持っていて、それを克服するにはどのような行動を起こすべきか、過去の歴史から学ぶ必要が出てきた。すると、世界史において顕著に受難したのはやはり黒人とユダヤ人なのであり、彼らがどのように受難し、それをどう克服してきたのかが大変参考になる。
 もちろん、福島県民と黒人・ユダヤ人を安易に結びつける気は毛頭ない。福島県民と黒人・ユダヤ人は却ってかけ離れているともいえる。だが、福島県民の受難は一種「民族的」受難であり、その構造を分析するためには、黒人やユダヤ人の歴史との比較が欠かせないと考える。
 奴隷としていわれもなくアメリカに連れてこられ、それから長い歴史をかけて人権を取り戻していった黒人の歴史。聖書の時代からさまざまな苦難を乗り越え、それでありながら世界中に散り散りになり、果てはアウシュヴィッツの犠牲者となったユダヤ人の歴史。それらの歴史を精査することにより、福島県民の置かれた地位を分析し、福島県民のとるべき行動が見えてくるような気がするのだ。

鳥原学『日本写真史(上)』(中公新書)

 

  日本写真史についての教科書的な本。1848年から1974年まで。

 英仏で写真が誕生すると、日本にも技術が輸入される。富国強兵政策の記録写真として、北海道開発から足尾銅山まで写真による記録がなされる。台湾出兵西南戦争に従軍する写真家もいた。一方で趣味で写真を撮るアマチュア写真家が増え、他方で雑誌を中心とする「写壇」が成立した。名取洋之助を中心にフォト・ジャーナリズムが成立し、第二次世界大戦に多くのカメラマンが従軍した。

 敗戦後、広島と長崎の写真記録が残されたりする一方で、ヌード写真が流行したりした。「岩波写真文庫」の画期的達成や土門拳の社会的リアリズムなどが場を席巻した。写真にもヌーヴェル・ヴァーグは押し寄せて、主体から主観への転換がなされた。

 高度経済成長期、写真家たちは週刊誌の仕事を得るようになる。また、商業写真の需要が一気に増えてくる。東京オリンピックベトナム戦争は格好の題材となった。ミュージシャンたちへの接近から大学紛争まで表現の幅を広げ、私的な題材を用いる「私写真」が登場する。

 本書は日本写真史の通史であり幾分退屈な感じは否めないが、十分内容は充実しており読みごたえがある。写真には興味があるけれど、歴史とか理論とか全く分からない、何から読んだらいいかわからない、という人には十分お薦めできる本である。とりあえずここに出てくる写真集などを少しずつ鑑賞しながら写真についての理解を深めていけばいい。

 

ゆう活取得による業務の効率化

 私はこの夏ゆう活(朝型勤務、残業なし)を取得することで、残業の圧縮と業務の効率化を図れたと思う。その理由として2点あげることができる。
 まずは、朝の静かな時間に集中して孤独な仕事を行えたこと。仕事には孤独な仕事と同僚とともにやる仕事があると思う。同僚とともにやる仕事については通常の勤務時間にやるとして、自分一人でやらなければいけない孤独な仕事については、朝の頭が冴えた時間に集中して取り組むことができた。朝の時間は極めて仕事の効率が上がる時間なので、その時間に集中して業務が行えたのは良かった。
 次に、切り上げる時間を定めたことにより、ダラダラ仕事を引き延ばすことがなくなった。4時15分には帰らなければいけないわけで、そうすると無限に残業ができるという前提が崩れる。結果、テキパキと時間までに仕事を終わらせようと工夫するようになる。終わらなかった仕事については、次の日の朝の静かな時間に集中してこなせばいい。
 ゆう活は、当社においてもまだそれほど定着しているようには思えないが、確実に取得者は増えている。やはり、朝型の人間にとっては業務を効率化するうえで願ってもいない制度であることは確かなようだ。もちろん、ゆう活ではどうしても業務が溜まってきてしまうこともある。そのときはたまに普通に残業しても仕方がない。だが、残業をつけるときに気付くのは、自分の残業時間が以前よりも目減りしているという喜ばしい事実だと思う。
 ちなみに、ゆう活をすると5時前に職場を出られるので、公共サービスを受けたり、空いている時間に買い物ができたり、夕方を趣味の時間に使ったりなど、ワークライフバランス的にも好ましい効果が期待できた。
 働き方改革の第一弾としてのゆう活、是非積極的に活用して業務を効率化しよう。

山本義隆『近代日本一五〇年』(岩波新書)

 

  開国以来の日本の科学技術政策の歴史を詳説した本。

 日本は開国以来、西欧の科学技術の発展に追いつくために、政官学一体となって科学技術の振興を推し進めてきた。本書はその歴史をつぶさに追っている。その過程では劣悪な労働環境で搾取された人々がいたし、自然は破壊され公害が起こったりもした。

 そして、福島第一原子力発電所の事故により、科学技術幻想は終焉し、人口減少とともに経済成長の現実的条件が消滅した。大国主ナショナリズムはもう過去のものとなっている。人間の幸せを求めるためには、成長の経済から再配分の経済に移行しなければならない。今、軍需経済がそれなりに発展しているが、軍需産業からの撤退・原子力使用からの脱却を宣言すべきではないか。

 本書は、近代日本の科学技術の歴史を様々な資料に基づいて詳細に記述した専門書顔負けの重厚な本である。そこでは、いかに日本が科学技術の発展による経済成長に猛進してきたかがわかる。だがそこには公害などの多大な犠牲が伴っていて、日本人の幸福は実現されなかった。これからの科学技術政策をどう舵取りするか、その判断をする前提として、きわめて重要な学習ではないだろうか。

新世代の若者たち

 私は曲がりなりにも所属組織では若手のつもりでいたし、若手職員の世代を幾分代表しているような気持にもなっていた。だが、最近の新入社員を見ていると、私などもはや若手ではないということに気付く。最近の新入社員は私などよりもっとドラスティックに現代の生き方を体現している。そんな新入社員を見て、私なんかは幾分苛立ったりしているのだから、もはや私は変化を恐れる老害に過ぎないのかもしれない。
 最近の新入社員を数人観察したところ、まず、人とのつながりを必要最低限に絞っている人がいる。事務的な話はするが、出張しても一緒にご飯を食べない、飲み会に参加しない、イヤホンをつけている時間が長い。仕事はしますけど俺の領域に入り込むな、というオーラをビンビン出しているのである。私などは割と誰とでも仲良くなろうと努力する方だが、彼らにとってはそのような情は不要なのだ。極めてドライで離群的である。
 次に、上下の意識が希薄な人がいる。組織の中での地位が高い人にまでフランクに馴れ馴れしく接してしまう人が普通にいる。私などは組織に入ったときにまず叩き込まれたのが上下関係だったが、今はそのような教育をそもそも受けていないようなのだ。だが、割と偉い人たちは彼らに寛容であり、時代は変わったと感じざるを得ない。
 また、自己肯定感が強い人がいる。今の時代の若者は褒めて育てられた若者である。理由なく自信を持ち自己愛が強い。私などはけなされて育った世代なので自己評価が低く、根拠のない自信をなかなか持てないのだが、彼らは理由もなく自分を肯定できて遠慮なく他人の非を攻撃する。
 さらに、勤労意欲が弱い人がいる。週休三日にしてほしいとかバカンスが欲しいとか真顔で言ってくる。まさにワークライフバランスを体現するかのような発言であり、明らかに時代の価値観は変わっている。私などは仕事にやりがいを見出す方であるが、彼らにとって仕事は苦痛でしかないようだ。
 以上、最近の新入社員を見るにつけ、もはや私の世代ですら老害であると感じる。私の価値観は比較的新しいと思っていたが、時代はもっと先に進んでいた。これからの働き方改革は、こういった若手たちの価値観を汲んだうえでないと絶対に成功しないと思う。