社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

千葉雅也『勉強の哲学』(文春文庫)

 

 

 学校を出て仕事に就いてからも、いろいろと見識を深めたいと思う人は多いだろう。だが、いざ勉強をするとなると、どこから手をつけていいか分からないし、どんな本を読んだらいいか分からない。結局気持ちだけで実際に勉強するまでは至らないケースが多いのではないだろうか。

 千葉雅也『勉強の哲学』(文春文庫)は、そのような大人たちへの格好の勉強マニュアルである。千葉によると、勉強とはそれまで自分が自明視していたノリから別のノリへと移ることであり、そこには既存の自分を破壊することが伴う。たとえば仕事のノリから社会学のノリへ移る際、不慣れな言葉の使い方に注目し、言葉の新たな可能性へ自らを開いていく。そして、勉強とはそれまでの自明な環境へのツッコミ・アイロニーであり、そこから見方の多様化(ボケ、ユーモア)へと接続していく必要がある。実際に勉強を始めるに当たっては、身近なところから問題を見つけ、そこからキーワードを探し出し、そのキーワードを扱う専門分野のノリへ引っ越すことが大事である。そうして、入門書からはじめて専門書を読みこんでいき、適当なところでまた他の分野のノリへと引っ越す。

 テレビで流れる表層的な知識では飽き足らず、またテレビで流れるニュースだけでは飽き足らず、より深く物事を考えていきたい。その際、どのように勉強していったらいいか。千葉の本書は大人のための勉強法を示すものであり、多くの人の役に立つと思われる。

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)

 

  人間たちは、互いに共存共栄し合い、人間という種族の繁栄を期するために日々生活し様々な政治活動を行う。たぶんこれは多くの人たちが生活の前提としている原則のはずであり、人間が互いを害し合ったりそもそも人間の消滅を願ったりということは多くの場合前提とされていない。何よりも政治的な意思決定は人間の共存共栄・繁栄に向けて決定される。

 だが、木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』によると、最近の情報技術の発展を背景として、そういった前提をくつがえすような思想が生まれているようだ。例えばピーター・ティールは国家や政治や競争から「イグジット」、つまり荒廃した弱肉強食の世界から主権ある個人が超越し、それらを統べる支配者になることを志向している。競争を避け独占を目指し、新世界の空白地帯に王国を築き上げることを目指している。また、ニック・ランドは既存の秩序と人間性を保守しようとするあらゆる体制やイデオロギーを批判し、人間を乗り越えようとしている。未来から侵入してくるシンギュラリティが国家・民主主義・ヒューマニズムといった近代的秩序を熱的死に至らしめることを予言している。

 新反動主義と呼ばれるこれらの思想的な動きは、平凡な庶民たちが助け合おうという我々の通念に反し、強者によるサイバー空間を利用した独裁を掲げ、また人間という種族の繁栄を願うという政治の大原則に反し、そもそも人間なき世界の到来を予言し待望する。いずれも情報技術の発展に伴い生まれた思想であるが、我々の自然的な情愛や幸福意識からするとダークな思想と映らざるを得ない。人間の不幸や不平等、そういうものを志向する悪の思想、そういうものが生まれつつある。いまだこれらの思想には現実性が乏しいとしても、近いうちには現実性を帯びてくるかもしれない。その時私たちは根底的なパラダイムシフトを強いられるだろう。

森岡孝二『雇用身分社会』(岩波新書)

 

雇用身分社会 (岩波新書)

雇用身分社会 (岩波新書)

  • 作者:森岡 孝二
  • 発売日: 2015/10/21
  • メディア: 新書
 

  非正規雇用によるワーキングプアの問題はつとに指摘されてきた。『蟹工船』がベストセラーになったりする背景には、労働者の人権が十分保障されていない現代への不満がある。だが、問題は労働者の人権だけではない。もはや社会構造自体が時代に逆行していて、新たな身分社会が出来上がっている。

 森岡孝二『雇用身分社会』によると、現代においては労働者の間に「身分」の違いが生じている。身分とは賃金やその他の労働条件によってなる職業的地位のことであり、①正社員、②契約社員派遣労働者、③パート・アルバイト等という三層に分かれている。正社員は賃金や労働条件が比較的恵まれている。契約社員派遣社員はそれなりの賃金が保障されているものの、雇用の調整弁としていつ解雇されるかわからない。パートやアルバイトに至っては賃金も低いしその他労働条件も悪い。また景気が悪ければ真っ先に首を切られる。このような身分社会は、新自由主義的な規制緩和によって生じた。労働者の派遣はもともと禁止されていたが経営側の都合により限定的に許容され、その範囲が拡大された。

 現代は格差社会だといわれ、また階級社会だともいわれる。単に格差があるだけではなく、それが世代間に受け継がれていくのである。だが、格差や階級という概念ではたりず、もはや現代日本には「身分」が生じている。これは戦後の平等主義に反するものであり、地主制度の時代や『女工哀史』の時代に逆行するものである。確かに自由と民主主義は両立しないかもしれないが、だからこそ規制によって経営者の自由を制限する必要があるのだ。最低賃金を大幅に引き上げ、賃金格差をなくし、労働者派遣法の規制を強め、残業時間の上限を設定することで誰もが働きやすいようにし、雇用・労働にもっと政府が介入する。時代の逆行を防ぐためには政府の危機意識に基づく規制強化が求められる。

中原淳他『残業学』(光文社新書)

 

  働き方は人それぞれ、残業についての考え方も人それぞれである。だが、残業というものをデータとエビデンスと論理に基づいて科学的に、つまり経営学の手法を用いて客観的に分析するとどうなるか。

 中原淳他『残業学』(光文社新書)は、残業というものを科学している。それによると、これからの超高齢化社会では少しでも多くの人材を必要とし、高齢者も共働き夫婦も外国人も、育児・介護・病気などで制限のある人も働ける働き方を目指さなければならず、「働く人」=「長時間残業が可能な人」という働き方はもはや維持できない。また、残業には健康リスクがあるし、自ら学ぶ時間を奪うリスクもある。企業にとっても、残業の多い会社は労働者が忌避するし、人材育成がうまくいかず、イノベーションが起こらず、コンプライアンス上も問題がある。残業を減らすことは中長期的に、「働く人」を増やし暮らしやすい世の中をつくっていくことで、個人・企業・社会の希望へとつながっていく。

 では、そのような残業を減らすにはどうしたらよいか。中原は、業務の透明性、コミュニケーションの透明性、時間の透明性を挙げる。業務の透明性とは、誰が何をどのようになるかを共有化することである。仕事の属人化を防ぎ、チームで仕事の分担を調整すること。コミュニケーションの透明性とは、わからないことをすぐに教え合う、上の者に対しても言いたいことが言える、上司・部下関係なく仲が良いこと。時間の透明性とは、いつまでが働く時間なのか、何がいつまでに行われるべきか明確化すること。

 長時間労働は働き手がいくらでもいた高度経済成長期には有効だったが、働き手が不足している現代においてはもはや時代錯誤になっている。たいていの人が労働に参画できるように、労働時間を削減し、その分ワークシェアをする。そのことによってこれからの超高齢化社会を日本は乗り切っていかなければならない。

森岡孝二『過労死は何を告発しているか』(岩波現代文庫)

 

  雇用とは原理的に契約であり、定められた職務の提供に対して定められた報酬を支払うという以上の何物でもない。契約である以上、原理的に企業と労働者は対等であり、労働者がその契約において死を望むはずがない。労働者はみずからの権利を十分行使できるように契約を結ぶはずである。

 だが、雇用の実態において企業は労働者の優位に立つ。企業は報酬を支払うことで労働者の生活を保障しているため、労働者は生活を維持するために企業の言うことを聞かなければならないのだ。この現実的な力関係に従って企業が労働者を酷使することによって、過労死や他の人権侵害が起こっている。

 森岡孝二『過労死は何を告発しているか』(岩波現代文庫)によると、近年過労死や過労自殺が増えている背景には、長時間残業などの過重労働、行き過ぎた成果主義、情報通信システムによる仕事の増大やジョブ・ストレスの増大、労働者の権利が軽視され消費者の権利が重視される企業文化、などがあるとされる。過労死に関する判例においては、企業は労働者の生命・健康に配慮する義務が認められている。過労死への対策としては、労働時間の短縮を法的に義務付けること、サービス残業の撲滅などが挙げられる。

 近年、ワークライフバランス働き方改革が支持を集めている一方で、依然としてブラック企業などが社会問題として残ったままである。また、残業時間の上限が週45時間に短縮されたのは大きな前進である。ここで我々は「雇用は契約である」という原点に立ち戻るべきではないだろうか。企業と労働者が互いの権利を尊重し合いながら対等に結ぶ契約、それこそが雇用であると、企業の側も労働者の側もきちんと意識することが大切である。そうすれば企業の側も過重な要求をしないし、労働者の側も自らの権利を行使できる。そのような風通しの良い契約関係に立ち戻るべきである。