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竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)

 

  私たちは別れの言葉として「さようなら」を使う。それは極めて軽い日常のあいさつであることもあれば、もはや一生会うこともないだろうという万感の思いがこもっていることもある。この「さようなら」という言葉にはいったいどのような意味がこもっているのだろうか。

 竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)は、日本人の使う「さようなら」という言葉を日本語学的に分析している。「さようなら」とは「そうであるならば」という意味であって、古いことから新しいことへの決別・確認・移行を示す。これまではこうだった。そうであるならば、これからはこうしよう。それが「さようなら」という言葉に込められた意味だ。そして、この「さようなら」は生死をもつなぐ。死に際して発される「さようなら」は生と死を連続的なものとして示す。

 このような「こと」の連続は、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」として「いま」という時点を肯定的にとらえるが、「いま」の肯定は生の積極的価値の肯定ではなく、不断に移ろいゆく現在の肯定であり、肯定される現在はまさに無常、現在は細分化されて享受されている。そして、「さようなら」は「そうならなければならないならば」という、状況に抗することなくあっさりとあきらめる「敗北の無常観」「浅薄なニヒリズム」でもある。

 私たちが日常的に「さようなら」を用いるとき、それはまた会うことが決まっていて、この日常がずっと続いていくであろうという相のもとであることが多い。今日はいったんここで別れるが、また今度会おう、そういう現在から未来へと連続していく物事の成り行きの一環として「さようなら」は使われることが圧倒的に多い。だが、別れには一抹の寂しさが伴う。特に、そう頻繁に会えない人との「さようなら」には、あきらめや悲しみが伴うことが多い。そういった場合、さようならは「そうならなければならないならば」の意味を持っていると言える。「さようなら」は、現在と未来をつなぐ言葉としてポジティブに使われることもあれば、現在と未来の断絶を表す言葉としてネガティブに使われることもある。これからも未来が続いていくという「さようなら」と、もうどうにもならないという「さようなら」。さようならには主にこの二つの意味があり、二つの意味がまじりあっていることが多い。