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世間の消滅

 コミュニティに属するということは、そのコミュニティのルールに縛られる一方、人間関係などによる恩恵をそのコミュニティから受け取るという両義性がある。コミュニティに属していれば何か困ったことがあっても助けてもらえるかもしれないが、一方で上下関係など理不尽なルールに従わなければならないかもしれない。自由か安心か。人間はコミュニティに属する度合いに応じてこのトレードオフに直面する。コミュニティに属していればとりあえず安心だが、コミュニティから解放されれば自由なのである。

 日本においてコミュニティは世間という形をとってきた。世間に属していれば安心、しかし世間から解放されれば自由。ところで最近この世間というものがあまり機能しなくなってきているように思われる。特に若い世代にとって世間は消滅しかかっているのではないだろうか。

 例えばあなたの会社の新入社員が腹痛で救急車を呼んだとする。そして結局病気ではなく軽症で帰されたとする。このとき何が起こっているのだろうか。まず、その新入社員は救急車を呼ぶということの「こと」の大きさをそれほど考慮していない。世間体を考慮していないのである。次に、その新入社員は困ったときに友人やコミュニティの成員などに頼れず、救急車にしか頼れなかったのだ。その新入社員は世間が自分を助けてくれるなどとは思っていないのである。ここにあるのは、世間がその規範的役割を果たしていない現状と、世間が安心を提供する社会関係資本として機能していない現状である。

 現代の若い世代にとって、もはや世間は失効しているのかもしれない。世間にとって代わるのは法制度であり理論である。実際、世間が有効である時代であっても、世間の手におえない事案は法制度や理論によって対処されてきたのだ。もしくは、すでに与えられた世間ではなく、自ら構築した人間関係によって世間は取って代わられている。

 世間が失効しつつある現代において、困った若者はすぐ救急車を呼ぶだろうし、すぐ訴訟を起こすだろうし、すぐ理論を振りかざすだろう。それは決して遠い未来ではなく、現在進行形で進行しつつある社会の姿である。