社会科学読書ブログ

社会科学関係の書籍を紹介

小川公代『ケアの物語』(岩波新書)

 ケアの観点から『フランケンシュタイン』や様々なテーマを読みといている本。キャロル・ギリガンが提唱した「ケアの倫理」は、関係性を維持するために互いが相手に対するケア・配慮の責任を担う必要があり、この他者のニーズに応えるべくその声を聴こうとするものである。『フランケンシュタイン』は、ケアを他者に施してばかりでケアを自身に向けることがデキない者、ケアを受け取ることができなかった者たちの声を読者がいかに掬い取るかという物語である。

 本書は、戦争や論破、親ガチャなど多様な話題に対して、ケアが働いていずむしろ暴力が支配しているところを問題視して、小さな声を拾い上げることを訴えている。そもそも声をあげられない人たちの声をも拾い上げることを目的として、ケアの精神を生かそうとしている。世界は暴力にあふれ、黙殺された人たちの方が大多数である。声をあげることすらできない弱者と心を通わし、ケアの倫理で結びつくということ。それが大事だということがわかる。

橋本努/金澤悠介『新しいリベラル』(ちくま新書)

 新しいリベラルという新しい政治的潮流が台頭してきたとする本。旧来のリベラルは、日米安保反対、憲法9条改正反対、天皇制反対、従軍慰安婦問題への謝罪を基軸としていた。だが、最近台頭している新しいリベラルは、人口の23%を占め、人的資本形成のため成長を志向するものへの政府の支援、次世代支援、子育て・教育の充実、女性活躍のためのハンディキャップの補償を基軸とし、社会的投資を基本的な態度としている。

 本書は新しいリベラルという政治的潮流を提唱し、その政治的多数性や時代との親和性、主な特徴と主な支持層について分析している。保守とリベラルについてはたくさんの言説が費やされてきたが、それらの議論に一石を投げかけるものである。ギデンズの第三の道に主に対応するとされる新しいリベラルは今後の多数派として注目される。

白石正明『ケアと編集』(岩波新書)

 ケアに関する書籍レーベルを担当した編集者によるエッセイ。ケアで問題となる論点は編集にも生かせるのではないか、ケアの原則は編集の原則ともなりうるのではないか、という提言の書である。中でも、べてるの家の創設者に著者は大きく影響を受けていて、治療モデルではないケアモデルで編集も考えられるのではないかと考えている。分母を変える、ものさしを変えるという姿勢は編集でも有効だと考えている。

 確かに、慣習的なものの見方にとらわれていると見えないことがたくさんある。自分が目からウロコが落ちるようなものの見方に出会うことで、人というのは自分の生業などへの理解を深めていくのであろう。著者はケアという分野に触れることで、自らの生業である編集をもう一度とらえなおし理解しなおしたように思う。目からウロコの体験が、自らの生業に影響を与える良い例だと思う。

伊藤将人『移動と階級』(講談社現代新書)

 移動の観点から格差を読みといていく好著。移動格差とは、異動をめぐる機会や結果の不平等と格差、それが原因で起こる社会的排除と階層化のことである。経済的な豊かさと移動格差には密接な関係がある。だが、移動しているから豊かであるとは限らず、難民など困窮の果てに移動している人たちもいる。移動をめぐる当たり前のことを問い直し、可視化されていない不平等に目を向ける必要がある。

 移動の観点から社会の不平等を論じる画期的な著作である。移動は、グローバルエリートの特権かと思いきや、よりよい職を求める低所得層の移民や、難民などもまた移動するのである。移動というもののはらむ社会的な意味は一筋縄でいかないものがあり、そうでありながらもやはり移動できるということはステータスと結びつきやすい。だが、それほど移動しないでも豊かな暮らしができることは強調しておきたい。

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)

 形式的な反省だけでは犯罪の真の解決にはならないとする本。犯罪加害者は、犯罪被害者に対して否定的な感情を抱いていることもある。被害者に対して否定的な感情を抱いたまま、形式的に反省させても真の反省にはならない。一度否定的な感情を吐き出させると、被害者への否定的な感情が薄まり、真に被害者に寄り添った心からの反省が可能になるとする本である。犯罪の真の原因は幼少期に受けた虐待やいじめであるケースが多いとのこと。

 被害者への否定的な感情だけでなく、加害者は自らの感情を抑圧せずに一度吐き出す必要があるのかもしれない。被害者も様々な感情で渦巻いているだろうが、それは加害者も同じである。自分の内面を一度吐き出したり整理したりすることで、心に余裕ができて、真の謝罪や反省や償いへとつながっていくのであろう。自分の内面の混乱を抑圧したままでは、真の謝罪や反省や償いへとは至らないのかもしれない。