「何もしなくていいんだよ」と自分に言い聞かせて幸福感を味わっている。つかの間の休みを謳歌しよう。適当に哲学や小説や評論などを読んで、音楽を聞いている。買い物に出かけたり、温泉に行ったり。
表現の自由や信教の自由など、人権というと作為の自由みたいにとらえられている。作為すると何かしら社会に影響を与える。その影響が国家的観点から好ましくないときに、それに対して国家が介入しがちだが、その介入を排除する。それが自由権の根本発想だ。
だが、同様に、不作為でいることも社会的に影響を与えることもある。そのことが国家的観点から好ましくないとき国家が介入しがちだが、その介入を排除する、そういう不作為の自由もある。例えば黙秘権。
ところが、国家というものは、国家自ら国民に義務を課すのではなく、国民自ら自分自身に義務を課すことに期待しているところが大きい。たとえば憲法上国民には勤労の義務があるとされているが、これは訓示規定に過ぎない。勤労すれば利益が得られる、そういうシステムを国家が形成しておけば、国民は、利益を得るために、自ら自分に勤労すべきと義務を課す。国家は制度設計を上手にすることによって、直接国民に義務を課さなくとも、国民自ら自分に義務を課すことにインセンティブを与え、結果最小のコストで国民の自発的な義務履行を導いているのだ。
だから、国家の運営上、国民が自分で自分に課している義務というのはとても重要である。例えば勤労の義務、研究する義務、助け合う義務、約束を守る義務、教育を受けさせる義務。法が強制的に国民に義務を課さなくとも、国民が自発的に自分に義務を課し、社会を発展させていく、そういう制度を国は維持する必要がある。
とすると、国民は国家に代替して自らに義務を課しているのである。国家は、国民を介して間接的に国民に義務を課すこともあるのだ。だとすれば、国民が自発的に自分に義務を課すことからの自由というのも重要である。自発的に「勉強しなきゃ」と義務を課す。その介入に対して不作為であることの自由。それも重要である。